精神科医であり作曲家である泉谷閑示さんの新刊『「うつ」の効用 生まれ直しの哲学』が発売になりました。本書は長年、精神療法を通して患者(クライアント)に向き合ってきた著者が、うつを患った人が再発の恐れのない治癒に至るために知っておきたいことを記した1冊です。「すべき」ではなく「したい」を優先すること、頭(理性)ではなく心と身体の声に耳を傾けることが、その人本来の生を生きることにつながると説く著者。前回に引き続き「眠れない」の背景に潜む仕組みを紐解きます。
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さて、「眠るまい」と「心=身体」が反発するのには、いくつかの理由が考えられます。まず第一に、そもそも眠りは「心=身体」の側が自然に行うはずのものであって、「頭」によって指示される筋合いのものではないということです。
「頭」に相当する部分を持たず「心=身体」だけでできている自然界の動物においては、睡眠は自然な欲求であり、葛藤なく実現されています。ですから、「心=身体」にしてみれば、「頭」が睡眠に口を差し挟んでくることは越権行為であり、それに反発を覚えるのも当然のことでしょう。
現代人の生活は、案外歴史の浅い、時計仕掛けの硬直化した時間によって毎日の生活が規制されています。季節が変わっても、天候がどうであれ、体調や気分がどんなでも、決まった時間に起床し出勤しなければなりません。そこから逆算して、睡眠を○○時間とるべきだから何時には寝るべきである、と「頭」が計算し、きちんと実行できることが「規則正しい」ことだとして奨励されています。
日々刻々と変わる生き物としては、必要とする睡眠の長さが日によって違ったり、眠くなる時間が変動したりすることはごく自然なことなのですが、しかしこれも現代の常識からすれば、不規則な睡眠として異常視されてしまう状況なのです。また、「うつ」状態においてよく見られる昼夜逆転の状態も、その意味が熟慮されずに、はなから病的なものと捉えられてしまう残念な傾向もあります。
一八世紀フランスの思想家ルソーは、いまや教育論の古典とされている『エミール』という主著で、次のようなことを述べています。
「食事と睡眠の時間をあまり正確にきめておくと、一定の時間ののちにそれが必要になる。やがては欲求がもはや必要から生じないで、習慣から生じることになる。というより、自然の欲求のほかに習慣による新しい欲求が生じてくる。そんなことにならないようにしなければいけない。子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ」(『エミール 上』、ルソー、今野一雄訳、岩波文庫)
一日をどう締めくくるか?
「心=身体」が「眠るまい」とするもう一つの理由として、今日一日の幕を引く気になれないということが考えられます。
一日を締めくくる眠りを、いわば「毎日の死」として捉えてみると、今日一日を「良く生きて」いなければ、「良く死ねない」。つまり、「死ぬに死ねない」がゆえに不眠になってしまうのです。
もちろん、一日は限りある短い時間ですから、欲張ってあれもこれもすることはできません。しかしながら、一日の中でたとえわずかでもその人らしい時間を持つことができたか否かは、その日の眠りを大きく左右します。
よく「身体を動かして疲れれば眠くなるものだ」と言われたりしますが、これは「身体を動かす」ことがその人らしい過ごし方である場合に限って有効なものであって、そうでないタイプの人がいくら身体を動かしても、「身体は疲れているのに、頭だけが冴えてしまって眠れない」ということになってしまいます。
静かに読書したり、音楽を聴いたり、日記をつけて自分との対話を行ったりすることがその人にとって大切な自分らしい時間であるならば、たとえ三〇分でもそんな時間を持つことによって、自分の奥底で何かが充足し納得するので、眠気も自然に訪れやすくなるでしょう。
どのように過ごすことが自分らしい時間になるのか、それは各人各様ですから、自分自身で試行錯誤しながら見つけていく必要があります。
おびただしいすべきことに追い立てられ日々を過ごさざるを得ない私たちにとって、ここで述べたようなことを実行することは、なかなか容易ではないかもしれません。しかし、何が自然で何が不自然なことなのか、日々の生活に何が欠けているのかということに無自覚であるよりは、せめて問題の所在に気づいているだけでも大きな違いがあるでしょう。
また、薬物療法を要するような不眠に苦しんでいる方であっても、社会化された「頭」が、内なる自然(「心=身体」)に向かって力ずくで睡眠剤という爆弾を投下し「あるべき睡眠」を強要するようなイメージで服薬するのではなく、時間に制約された状況に生きているがゆえに薬を使わざるを得ないのだと自分の「心=身体」に詫びつつ、「これで少しでもお休みください」とお願いするような気持ちで薬を使用することが大切なのです。
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「うつ」の効用 生まれ直しの哲学
『仕事なんか生きがいにするな』『「普通がいい」という病』の著者によるうつ本の決定版。薬などによる対症療法ではなく再発の恐れのない治癒へ至るための方法を説く。生きづらさを感じるすべての人へ贈る、自分らしく生き直すための教科書。