禅僧、庭園デザイナー、多摩美術大学教授などの肩書を持ち、『ニューズウィーク』日本版では「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた枡野俊明さん。著書『禅が教えてくれる美しい時間をつくる「所作」の智慧』は、そんな枡野さんが説く、ちょっとした心がけが詰まった一冊です。お辞儀、お箸の使い方、掃除、感謝、言葉づかい……実践すればきっと「いいこと」が起こり出す、そんな本書からとっておきの智慧をご紹介します。
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禅の修行は掃除から始まる
「散らかってきたから、掃除をしなくちゃ」。みなさんの掃除に対する感覚は、おそらくそんなものではないかと思います。散らかっているものを片づける。汚れたところを綺麗にする。つまり、掃除をすること自体には意味はなく、掃除をした結果、片づくこと、綺麗になることに意味があると考えているわけです。
しかし、禅ではその掃除を何にもまして重要なものだとしています。それをあらわすのが「一掃除、二信心」という言葉。信心より前にやることがある、それが掃除だ、というのですから、禅の修行は、まず、掃除をもって始まる、といってもいいですね。
事実、禅寺はじつによく掃除が行き届いています。廊下に塵ひとつないのはもちろん、姿が映るくらいに磨き上げられています。しかし、くる日もくる日も、雲水たちはそのピカピカの廊下を磨き続けるのです。何も知らない人が見たら、「汚れてもいないのに、なんで?」と思うかもしれませんね。
そうして廊下を磨くこと、掃除をすることの意味を、禅ではこう考えます。「掃除=心の塵を払うこと」。
生まれたばかりの赤ちゃんの心は一点の曇りもなく、塵も埃もついていません。ところが、成長するにつれて、いろいろなものが積もってくる。欲や迷い、不安や恐れ、妬みや嫉み……といった、いわゆる煩悩です。これが塵にも埃にもなるのです。
その塵や埃が厚く積もった状態を、私は「心のメタボ」と呼んでいるのですが、肉体的なメタボを解消するために、たとえば、エステと取り組む必要があるように、心のメタボを取り去るためにも、「心のエステ」にあたる行動、所作が必要なのです。
お釈迦様も掃除を大切にしていた
その代表が掃除です。禅僧は廊下を一心に磨くことによって、心を磨き、その塵や埃を払っているのです。
塵を払うことに関してお釈迦様のこんなエピソードがあります。お釈迦様に周梨槃特という弟子がいました。兄の摩訶槃特とともにお釈迦様に仕えていたのですが、聡明な兄に比べ、周梨槃特はもっともできが悪い弟子だったのです。
その愚かさのために、周梨槃特は修行の場である精舎を追われそうになります。そのときお釈迦様は、ひとつのことを周梨槃特に命じます。一枚の布を手渡して、「塵を払い垢を除かん」といわれ、精舎にいる修行僧たちみんなの履き物を磨くように申し渡したのです。
周梨槃特は、愚直に、ついている塵や埃を払い、履き物を磨き続けました。そのなかで、ふと気づいたのです。「いま磨いているのは自分の心なのだ」ということに……。その後、悟りの境地に達した周梨槃特は、お釈迦様の弟子のなかでもとりわけ優秀とされる十六羅漢のひとりとなります。
履き物を磨く、廊下を磨く、柱を磨く、机を磨く、器を磨く……。そうした所作が、ひいては掃除が、そのまま、心を磨くことになる、というのはお釈迦様の教えそのものなのです。
ただ、片づける、綺麗にする、ということだったら、「まあ、この程度でいいや」ということになるかもしれません。しかし、それが自分の心を磨く所作であることがわかったら、もう、決しておろそかにはできません。一心に磨くしかない!
掃除は、そのもの、その場を美しくすることであるのはもちろんですが、“心の目”で見れば、あなた自身の心を美しくし、あなたが過ごす時間を美しくするおこないなのです。
禅が教えてくれる美しい時間をつくる「所作」の智慧
禅僧、庭園デザイナー、多摩美術大学教授などの肩書を持ち、『ニューズウィーク』日本版では「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた枡野俊明さん。著書『禅が教えてくれる美しい時間をつくる「所作」の智慧』は、そんな枡野さんが説く、ちょっとした心がけが詰まった一冊です。お辞儀、お箸の使い方、掃除、感謝、言葉づかい……実践すればきっと「いいこと」が起こり出す、そんな本書からとっておきの智慧をご紹介します。