「ショートケーキ」や「チーズケーキ」などの定番商品から、「パリブレスト」「ババ」などの変り種まで、約150種のお菓子に秘められた物語を明らかにした書籍『お菓子の由来物語』。名前や形の由来から、現代にいたるまでの変遷や歴史上の人物との関係性など、お菓子のルーツを余すところなく紹介しているこの一冊から、一部を抜粋してご紹介します。
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ザッハトルテは、どのように生まれたのか?
有力なのは、次の2説である。
(1) ウィーン会議(1814~15年)が開催された折、主催者であり、議長を務めたオーストリアの政治家・宰相のメッテルニヒが、フランツ・ザッハ(Franz Sacher)に会議のためのお菓子を作るよう命じたのがはじまりで、彼の名前をとり、ケーキを「ザッハトルテ」と命名したという説。
(2) 1832年、メッテルニヒが、特別な客をもてなすためのお菓子を作るよう料理長に命じようとしたが、料理長が病に伏せっていたため、見習いの16歳のフランツ・ザッハにその任務を命じ、彼がザッハトルテを作ったという説。
ザッハトルテを巡る争い 7年戦争
フランツ・ザッハは、ザッハトルテを売り出して財を成し、その後、息子であるエドゥアルド・ザッハ(Eduard Sacher)は、1876年「ホテル・ザッハ」を開業し成功する。しかし、これは彼より15歳年下の妻、アンナの経営手腕によるところが大きかった。
アンナの死後、ホテル・ザッハは、財政難に陥る。彼女の息子エドゥアルドは、父と同じ名前で、ハンサムだったが商才はなく、しかも時代は、世界恐慌まっただ中。そこに救いの手をさしのべたのが、ウィーンの王室御用達のケーキ店「デメル(Demel)」の経営者アンナである。
アンナは、ホテル・ザッハの専売特許であるザッハトルテをデメルでも販売してよいということを条件に資金援助を行い、このときに製造方法も流出した。
ホテル・ザッハとデメルの業務提携は、ウィーンの社交界でも有名となり、エドゥアルドとアンナの間には恋愛関係があるのでは、という噂も流れた(*3)。
しかし、2人が他界後、ザッハ家はデメル家に対して、ザッハトルテの名称の使用を禁じる裁判を起こし、なんと、裁判は7年に及んだ(*4)。世にいう「甘い7年戦争」である。結論としては、一応ザッハ側の勝訴となり、オリジナルを名乗るのは、ザッハであるが、デメルも「デメルのザッハトルテ」として、販売してよいことになった。
両者のザッハトルテを比較
ホテル・ザッハのものは、ケーキを横にスライスして、スポンジの間にも表面にもアプリコットジャムが塗られている。ケーキの表面には、丸いチョコレートのメダル(上に乗っている円状のチョコレートのこと)が貼られ、「Original Sacher-Torte」と記され、元祖を名乗っている。
一方、デメルのものは、スポンジの表面にのみ、アプリコットジャムが塗られ、三角形のチョコレートのメダルが貼られ、「Eduard Sacher Torte」と記されている。ちなみに、デメルには、「アンナトルテ」というお菓子もある。
*1「ザッハマッセ」と呼ばれるずっしりとした生地。
*2 ザッハトルテのコーティングは「ショコラーデン・グラズュール」と呼ばれる、フォンダンとカカオマスで作るチョコレートフォンダンにより行われる。砂糖水を112℃まで煮詰めてからマーブル台上で少しずつテンパリング(温度操作)して作るが、高度な技術を要する。ザッハトルテの制作上のポイントは、この部分にあるといわれる。
*3 業務提携ではなく、2人が結婚したと説明する文献もある。
*4 9年とする説もある。
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お菓子の由来物語
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