夏輝が刑事となって配属されたのは、警視庁S署E分署の刑事課一係だった。
S署は都内でも有数の繁華街を管内に持つ大きな警察署だが、同じくその管轄にあるE地域もここ数年で主要駅の駅前再開発が進んだことにより、高層ビルが立ち並ぶ近代的な街に変貌(へんぼう)を遂げた。警視庁としてもその近辺で増加する事件への対応に迫られ、数年前に分署を設置したのである。
ただ、夏輝がそのE分署に配属されてからの三週間ほどは、取り立てて大きな事件もなく、新米刑事に課されるお茶汲(く)み仕事に始まって、各種書類の書き方などルーティンワークを覚える毎日が続いていた。傷害事件の証拠固めに出る先輩刑事に付き添う日もあったが、とりあえずは仕事を観察しているだけで、だいたいは世間話の相手を務めるくらいの役割しか与えられなかった。
そうこうして一カ月近くが経(た)った十月初めのある日、夏輝は先輩刑事に頼まれた調べ物を法務局に行って済ませ、署への帰り道を歩いていた。
少し前まで夏の気配が街のそこかしこに残っていた気がしていたが、今はもう、風一つ取っても秋の肌触りをしている。夕暮れ前のこの時間になると、その実感が特に強くなる。
秋風に吹かれながら、大通りに架かるペデストリアン・デッキを渡る。この頃は量販店で買ったスーツの着心地にも慣れた。最初は気持ち悪いほど軽く感じたスラックスも今では当たり前の感覚になり、フル装備の制服時代には、できればもう戻りたくはなかった。
デッキのガード沿いに、派手な柄のシャツを着た中年の男が煙草をふかして佇(たたず)んでいた。ヘビ革の靴とベルトが鈍く光っている。肉の削(そ)げた頬に苦み走った皺を刻んだ顔つきも穏やかとは言えず、何の仕事をしている人間なのかも見当がつかない。
制服警官時代なら、目が合ったところでちょっと職務質問をかけてみたくなるような相手だが、好んで関わり合いになる気持ちもなく、夏輝は絡んだ視線を外して、そのまま通り過ぎようとした。
しかし、その相手から声がかかった。
「よう」
まるで顔見知りを呼び止めるような口調だった。
「お前、誰だっけ?」
男は眼を細めて紫煙を吐きながら、夏輝にそう尋ねかけてきた。
夏輝は足を止め、その男をまじまじと見た。いきなり話しかけてきて、「誰だっけ?」もないものだ。交番勤め時代に会ったことがあるのだろうか? この手の男なら、仮に会っていたとしたら憶(おぼ)えていると思うのだが、まったく記憶にない。
「平安ビルの店にいたんじゃねえか? どっかで見たことあるぞ」
平安ビルなど知らない。人違いだと確信して、夏輝は「いえ」と首を振った。
「違うのか……ちょっと待てよ」
行こうとする夏輝を男は止める。
「確かに見憶えがあるんだけどな……」
単なる暇潰(ひまつぶ)しの相手にでもしたいのか……しかし、夏輝を見る眼は意外に真剣だった。
「やくざって顔じゃねえし……」
眉間(みけん)に皺を寄せて考え込むような顔をしていた彼は、不意に眼を見開いた。
「刑事か……いや、見たんじゃねえ。似てんだ。そうか、島尾だ」
一転して、彼は耳障りな笑い声を上げた。
「お前、島尾だろ?」間違いないというように、彼は夏輝を指差した。「あいつの若いときの顔思い出して気づいたよ」
「違います」
どこのチンピラか知らないが、関わり合いたくはなかった。第一、自分は島尾ではない。
「ちょっと待てって」男は続ける。「そうか、島尾じゃねえ。あいつは男やもめだからな。お前は佐原だ。どうせお前も刑事だろ。どこの署だ?」
何でこいつ、そんなことまで知ってるんだ……夏輝は気味が悪い思いで男を見た。
「あなたは誰……?」
「親父に訊(き)いてみろよ」
愉快そうに言われても困る。気味が悪いから訊いてみただけであって、別にどうしても知りたいわけではない。
いいからそのまま振り切ろうと、背を向けたところで、また男の声が飛んできた。
「お袋さんは帰ってきたか?」
そんなことまで……夏輝が振り返ると、男は爽(さわ)やかさのない笑みをニヤリと浮かべた。
しかし、それも束(つか)の間(ま)、彼は通りのどこかに視線を移し、デッキのガードにもたせかけていた身体(からだ)を起こした。
「ああ、かったるいぜ……」
待ち人でも見つけたのか……やはり今までのは暇潰しだったとでもいうように、男は吸いさしの煙草を眼下の車道に弾(はじ)き飛ばすと、夏輝にあっさり背を向けてデッキを反対方向へ下りていった。
何だ、あの男は……夏輝は薄気味悪い気分を残したまま、男の背中を見送った。
その二日後、E分署管内でマンションからの転落と思われる不審死体を発見したとの通報が入ってきた。
「それで佐原よぉ……お前の夢は何なんだ? お前は何狙(ねら)ってんだよ?」
「いや、夢って言われても……僕は刑事になったばかりだし、とりあえずこの仕事を頑張っていくくらいですよ」
「馬鹿……お前、所轄のしかも分署で満足なのか? お前、男だったらよぉ、本庁の捜一目指さないでどうすんだよ。捜一だよ、捜一」
ちょうど夏輝は安い居酒屋で、鷹野浩次(たかのこうじ)という先輩刑事と飲んでいて、自称〝捜一オタク″の彼とそんな会話を交わしていた。
「捜一はいいぞぉ。でかいヤマがありゃ颯爽(さっそう)と現れてよ、当たり前のように帳場の中心に陣取るんだからな。別に能力でこっちが劣るとは思わねえけどよぉ、一緒に並ぶとやっぱ何か、引け目みたいなのは感じるわけよ。どっかで自分とは違うみたいなものがあるんだよな。野球で言えば、バリバリのメジャーリーガーみたいなもんだからな。まあ、俺も中に入りゃあ、そこそこやれると思うんだけどよ、こればっかりは人事の運不運もあるからなぁ。いや、俺もそこそこはやれるはずなんだよ。だってよ……」
明日は非番とはいえ、もう午前零時をとっくに過ぎている。それでも鷹野の口は芋焼酎をあおるごとに勢いを増し、怪しいろれつになりながらも決して止まろうとはしないので、夏輝は「そろそろ帰りましょうか」との言葉を出すタイミングを計りかねていた。
そんなとき、鷹野がふっと息を吐き、顔をしかめながら上着の内ポケットをまさぐりだした。携帯電話から刑事ドラマの着メロが聞こえてくる。
「はぁい、鷹野です」
酔っ払い口調丸出しで電話に出た鷹野は、しばらく眼を閉じて、先方の話を聞いていた。
「はい……了解……現場(げんじょう)住所は……分かりました。佐原が一緒にいますんで……ではすぐに」
鷹野はコースターにメモを取り、電話を切ると、かったるそうに酒くさい息を吐いた。
「やべえな、飲み過ぎちまったよ」頭を振り、おしぼりで顔を拭(ぬぐ)う。
「何か?」
夏輝が訊くと、鷹野はコースターを夏輝の前に滑らせた。
「そこの建物の下に死体が落ちてるらしい」
「事件ですか?」
「知らねえ……俺はちょっとゲロして行くから、先に行っといてくれ」
「大丈夫ですか?」
夏輝は現場に出て困るほどには飲んでいない。
「いつものことだよ」
鷹野は言いながら、「じゃあ」というように手を上げた。
コースターに書かれていた住所は、夏輝たちのいた居酒屋からそれほど離れてはいなかった。細い用水路と二車線道路が並び、それに面して七階建ての藤沢ビルという名前の雑居ビルがあった。前にはパトカーが一台停まっている。夏輝はそこでタクシーを降りた。午前一時を少し回ったところだった。大通りから外れているからか、あたりは夜の静けさに包まれている。藤沢ビルの隣は店舗の入った商業ビルらしいが、今の時間ではシャッターが下りていて、人の気配はない。
藤沢ビルはかなりの年季を感じさせる薄汚れたタイル張りの箱型ビルだ。小さなエントランスの横に入居事業所の名を記したプレートが並んでいる。ガラス張りのドアの中には薄明かりが見えるが、人気(ひとけ)はない。
エントランスの左右には申し訳程度の植え込みがあり、右側の植え込みの向こうに制服警官が二人立っている。一緒にいる男性は通報者だろうか。夏輝のところから見える人影はそれだけだった。
夏輝は身分証を片手に持ち、制服警官二人に目礼した。敬礼を返した彼らの視線がビルの脇のほうへ向いた。
見ると、藤沢ビルと隣のビルとの間には、入口こそ狭いものの中に向かって袋状に広がっているスペースがあり、普通車なら斜めに停めて四、五台は収まりそうな駐車場になっていた。今は一台の車もなく、代わりに、うつ伏せに倒れたままの人影が奥のほうにあった。街灯の明かりで、男だということは分かる。くすんだ色のズボンに、派手な柄のシャツを着ている。無造作に投げ出された足がこちらを向いている。
下はコンクリート敷きだが、半分くらい剝(は)がれていて、雑草が伸びている。すぐそばには、ビルの外階段が見える。そこから落ちた可能性が高い。隣のビルにも窓があるが、それらはすべて閉まっている。
「遺体はこのビルの関係者ですか?」
「まだ何とも……ちょうど今、救急隊員が死亡を確認して引き上げていったところです」
「通報は?」
「こちらが零時四十分頃に」
通報者は五十歳前後の生真面目そうな男だった。ジャージを着て、下はサンダル履きだ。単身赴任で仙台から東京に出てきている田川という会社員だった。
簡単に話を聞くと、彼はこの近くのマンションの住人で、コンビニに夜食の買い出しに行く途中、道路からふと目をやり、ビルとビルの間に横たわる人影を見つけたのだという。
夏輝は懐中電灯を警官の一人から借りて、遺体の近くへと寄ってみた。制服を着て交番勤務をしていた頃、二、三度、変死体発見の通報を受けて、現場に駆けつけたことがある。ホームレスの凍死や自殺者の溺死(できし)などだ。また、引き合いに出すのもはばかられるが、つい最近には祖父の臨終にも立ち会った。だから、死体を見慣れていないということはない。
けれど、明らかに損傷を来(きた)した死体は初めてである。首が曲がり、顔が向こうを向いている。首の向いた方向に回り込むと、案の定、普通の寝顔とは違っていた。顔つきの原形こそかろうじてとどめているものの、まず即死は免れなかっただろうと思われる惨状を見せている。血はコンクリートの剝がれた地面に吸い込まれていた。
この男……夏輝はどこかで見た憶えがあると気づき、懐中電灯の光をさらに近づけた。顔から身体のほうに光を移し、ヘビ革の靴を捉(とら)えたところで思い出した。
二日ほど前、E駅近くのペデストリアン・デッキで会った男だ。
行きずりのことでしかなかったが、いかがわしさと不敵さが混じり合ったような、何とも言えない印象があった。その男が今は打ち捨てられたような姿をさらしていると思うと不思議な感覚だった。
自殺だろうか。自殺にしても、こんな死に方はしないほうがいいのにな……夏輝はその男の死体を見ながら思う。
とりあえず、今の自分に任される仕事は、現場保存ということだろう。死体をカラスにでもつつかれないように見張っているのがせいぜいだ。
じめついた空気が沈滞している。そういう場所なのか、そういう夜なのか。蚊が不快な羽音を鳴らして夏輝の耳元にまとわりつく。それを手で払いのけていると、やがて前の通りに車が停まる気配がし、先ほど別れたばかりの鷹野が現れた。
「大丈夫ですか?」
夏輝が声をかけると、鷹野は答える代わりに顔をしかめてみせた。
「何か、本庁の捜一が来るらしいぞ」
「え?」
こんな、まだ事件とも事故とも分からない死体が出ただけで、本庁の人間が来るというのか。夏輝は何だか意外に感じた。
「ああ、これは吐けるなあ」
鷹野は死体の顔を見るなり不謹慎なことを言い、道路のほうへ行ってしまった。まだ吐き足りなかったらしい。
夏輝の視界から消えた鷹野と入れ替わるようにして、また車が一台、ビルの前で停まった。制服警官たちが退(の)き、暗色のスーツに身を固めた男二人が姿を見せた。
どちらも見たことのない顔だ。どうやら、鷹野の言葉通り、捜査一課の連中がやってきたらしい。それにしても、夏輝や鷹野以外の所轄署刑事もそろっていないうちからの臨場とは、びっくりするほどの早さだ。
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