15歳、才能だけを頼りに徒手空拳で単身イギリスへ! そのあとは……!? いまや「世界でもっとも演奏機会が多い」現代作曲家・藤倉大の超絶オモシロ自伝エッセイ『どうしてこうなっちゃったか』から、試し読みをお届けします。
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「海の向こうに見えるの、何だかわかるかい? フランスだよ」
雲のない、ひと昔前のパソコンのスクリーンセーバーみたいに真っ青な空。ここはイギリス。海辺からドーヴァー海峡を眺めていたら、高校の校長が言った。この時、僕は日本の中学3年生。1992年、15歳になりたての夏休みだ。
前年からヨーロッパの高校への留学を考えていた。が、英語がしゃべれない。だから中学2年の夏休みに、イギリス東部ピータボロで語学サマーコースに数週間通った。3年の夏休みにはロンドン北西部ハーロウとオックスフォードの語学サマーコースに行った。
ハーロウのサマーコースで、あるドイツの女の子と出会い仲良くなった。その後、数年にわたって手紙で文通し合い、やがて、どちらからともなく疎遠になり自然消滅した。
話を中学3年の夏休みに戻す。じつはこの時、僕は高校受験も兼ねていた。僕が受験したのは、ドーヴァー海峡を見渡せる場所にある高校ドーヴァー・カレッジと、ロンドンと隣接するイギリス南東部バッキンガムシャーの、近くにF1のシルヴァーストーン・サーキットがあるストーウという高校だ。
まず最初に、なぜイギリスに、1人で、それも高校から留学したいと思ったのかを書こう。この質問はけっこう頻繁(ひんぱん)にされる。作曲を始めたのは、すでに書いたように7、8歳の頃からで、当時、僕が知っていたクラシック音楽の作曲家たち──ベートーヴェン、バッハ、ブラームス、モーツァルト──は、みんなドイツ語圏じゃないか! と気づいた。なのでドイツに留学したい、でも、その前に、まずヨーロッパに1回行ってみたい、と小学生の頃から思い続けていた。
父は出張が多く、不在がちだった。そのせいか「年に1回、冬休みは一家で海外旅行したいね!」そんな話になる家だった。だから、毎年ではないけれど、数回、そうした家族旅行があった。
中学1年の初秋のことだ。僕はヤマハ音楽教室で、年明けにピアノの発表会があった。曲はベートーヴェンの何番だったかのソナタ。年末は、とにかくピアノの練習を優先するスケジュールにせねばならなかった。
それで、旅行するにしても、アジアの近場で、ほんの短い日程にしよう、と母は提案した。暖かい場所が好きな母は「プーケット島に行こう!」と言った。
そんなとき、運動音痴な僕が、なぜだか休み時間にバレーボールをして、地面に手をつく転倒をした。その上にけっこう大柄な男子が乗っかかるように倒れてきた。お互い同じボールを見上げていたんだろう。結果、僕は左手の手首を骨折。年始過ぎまでのギプス生活を宣告された。当然、秋の終わりに行われるクラス対抗合唱コンクールの伴奏はもちろんのこと(本番は、担任が僕のピアノ・パートだけを録音していたものを伴奏に使った)、年明けの発表会にも出られない。
これによって僕の冬休みには、「交渉の余地」が生まれた。
この状況をまとめてみる。
(1)まず、もう発表会のための練習は不要。
(2)となれば、年末の旅行日程を短くする理由もない。
(3)よって、近場プーケットにする理由も何一つない。
僕は「悲劇的かつ不可抗力の骨折をして落ち込む僕を慰めるためにも、ヨーロッパ1週間旅行にしようよ!」と、ダメもとで両親に提案をし、さらに「この骨折は、主から僕たちへの啓示だ」と付け加えた。
僕は一貫して無信心だが、宗教そのものには興味があって、宗教学の本や、「人はなぜ神を信じるのか」といった宗教関係の啓蒙書をその頃から読んでいた。無宗教だけど、あえていうとチベット仏教にいちばん興味がある。また、日本の昔の神道もとても面白いと思っている。だが母はキリスト教徒。父も今はどうだか知らないけど、昔は牧師の短期大学の神学科や神学校に通い、さらに専門学校で宗教音楽を学んでいた。父と母は短大時代に知り合ったようだ。親がキリスト教なのをいいことに、僕は都合のいい時だけ「主が僕に○○せよ、と告げている」と言って親を説得した。神さまも家庭内での交渉にまで駆り出されて大変だ。
母は、「ヨーロッパは緯度が高いから冬は寒い。行くのは絶対、嫌」と言ったが、僕は「大西洋に暖流が流れてるから、日本くらいか、ひょっとすると暖かいくらいだよ」と言い続けた。名付けて「暖流作戦」だ(実際ロンドンに着いたら歴史的な大雪だった。どうした暖流!)。
この時の交渉の3本の矢「骨折してかわいそうな僕」「神が僕に骨折をさせてヨーロッパに行けと言ってる」「ヨーロッパは暖流が流れてるから寒くない」は見事に的を射貫き、中学1年の年末から年始にかけてロンドン・ドイツ(都市はどこだったか忘れた)・ウィーン1週間の旅を手に入れた。当時の日本人の典型的なヨーロッパツアーだ。ガイドは現地で旗を持って歩いていた。
こうして初めてヨーロッパを経験した。僕はそんなことを言った覚えはないんだけど、母曰く、この旅行の後、「ヨーロッパが僕を呼んでる!」と言い始めたらしい。
この時、「大学を出たらヨーロッパに留学したい」から、急激に気持ちに加速度が付いて、「ヨーロッパに行くなら早ければ早いほどいい」に変化した。それで同じ年の夏休みに再びイギリスへ行った。
それで、なぜイギリスだったのか、だが、それは、いちばん行きたかった国はドイツだったけど、英語のほうがドイツ語より馴染(なじ)みがあったから、という至極単純な理由だけだ。当時は英語もできなかったけど、まずは英語を学んで、その後ドイツでもどこでも行けばいいと考えた。
じつをいうと僕は、日本の学校の試験が大好きだった。時計の秒針のカチカチ音しか聞こえない静寂と、クラス全員が鉛筆を走らせるコツコツ音がもたらす緊張感がたまらない。学校の勉強ができるのと、頭の良し悪しがまったく無関係なのは、当時の僕もわかっていた。どんな問題が出題されるか予想するのも好きだった。自分が出題者ならどんな設問をするだろうと想像すると、おおよその試験問題が見えてくる。あとは、そこだけ勉強すればいいわけで。
中間試験や期末試験は、だいたい学校の先生が出題者なので、その先生の授業時の声の高さで、そこが試験に出る箇所かどうかがわかる。急に声が高くなり「大事やで、ここ!」とチョークで黒板を叩く場合は、「これ出まっせ!」と言ってるようなものだ。
でも、中学3年の夏休みにイギリスの高校を受験し、2つの高校に奨学金付きで合格していた僕は、当時、担任の女性教師にこう言われた。
「あんたがすでに高校に受かってることは、クラスの子らには絶対に内緒にせえ。士気が乱れるから。それに日本の高校の受験はすんな。あんたが受かった分、誰かが落ちる」
それで、一度経験してみたかった日本の高校受験もできなくなった。なのに架空の高校受験のため、みんなと受験勉強をしているふりをせねばならなかった。
イギリスの高校の受験。これはなんというか……楽勝だった。留学斡旋(あっせん)会社が勧めてくれた、2つの高校ドーヴァーとストーウ。どちらも、行ってピアノを弾いてみせただけ。
1曲は自作曲。もう1曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」の全楽章だった。2校ともすぐに奨学金付きでオファーが来た。
ストーウは正門から校舎まで車で移動するくらいの大きな高校だった。敷地内に、湖みたいに大きな池があり、校舎やその周囲の風景の写真集も出ているとか。映画の撮影にもよく使われる、と教師から聞いた。
ドーヴァー高校は正反対だった。
フランスが見えるよ──この殺し文句に中学生の僕は騙された。いや、おっしゃるとおりなのだが、からっと晴れ上がった日にしか見えないし、元来イギリスでは、どんよりした天気の日がほとんどだ。それに、実際ドーヴァーに住んだら、フランスを見るために、わざわざ汚い港街の海辺にまで出向かない。映画「ロビン・フッド」(1991年のケヴィン・レイノルズ監督作品。主役のケビン・コスナーがなぜかアメリカ訛(なま)りの英語をしゃべる。当時ブライアン・アダムスの主題歌が大ヒットしていた)の撮影に使われたドーヴァー・カッスル(城)が近所にあったが、そこにも1度しか行かなかった。僕は結局、類(たぐ)い稀(まれ)なる晴天の海辺の光景だけで、ドーヴァー高校に決めてしまったのだった。
中学3年生の2学期から約束どおり、クラスのみんなに黙って、受験勉強をみんなと同じようにして、「藤倉どこ受けるん?」と聞かれたら、適当な高校の名前を挙げて嘘をついた。
中学時代お世話になったヤマハ音楽教室の坂弘子先生には、卒業の1カ月ほど前に、母から「高校はイギリスに留学することにしました」と伝えてもらった。坂先生は「あ、藤倉くんはそうでしょうね、それがいい」と言ったらしい(坂先生も、作曲の藤原嘉文先生も、今は日本で行われる僕の作品の演奏会に来てくれる)。
そして3月、中学校の卒業式。
次の週、大阪からイギリスへ渡った。イギリスでは新学年の始まりは9月からなので、翌月4月は第3学期だ。
イギリスに到着した日本人学生が、まず入学前に必ずしなければならないことがある。それはガーディアンを決めることだった。
(つづく)
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2022年3月16日19時半〜、新刊や作曲の裏話がたっぷり聞ける藤倉大さんオンライン対談を開催します。詳しくは幻冬舎大学のページをご覧ください。