幼少期からアフリカの人々の美しさに強烈に心惹かれ、23歳のとき単独で初めてエチオピアに渡った、ヨシダナギさん。好きなものを追いかけ続けた結果、フォトグラファーとして活躍する彼女の生き方と作品は若者を中心に指示され、写真展は1年で10万人を動員するなど、注目を集め続けています。
昨秋発売のヨシダナギさんの著書『贔屓贔屓(ヒーキビーキ)』は、読者から「自分にはなかった視点で面白い!」「好きなものは好き、という気持ちを大切にしたくなりました」など、反響をいただいております。
話題の本書より、担当編集が特に贔屓にしている箇所を抜粋してお届けします。
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私は「贔屓(ひいき)」という言葉が好きだ。
それは、自分が好きなモノやコトについて誰にも遠慮することなく「好き」と言いたいし、自分ではない誰かに無償の愛を注いでもらいたいからでもある(私自身にそれ相応の魅力がないとしても)。
この世の中で「公平」という言葉の価値が上がるにつれ、好きと思うものを素直に「好きだ」と言いづらくなったように思える。
それは、何かに対して「好き」と言うと、そこにある深い意味を必ず問われるし(うまく答えられないと、その好意を軽く見られる)、対極にある何かを否定しているように他者からは捉えられるかもしれない……という恐怖があるからなのだろう。
もちろん「公平」であることは全面的に良いことだ。でも、個人的な好意や嗜好に意味や根拠を求めすぎるのは窮屈なことだし、それを自由に宣言できないことは、とても怖いことだとも思う。
「好き」という感情は、その対象へのポジティブな想像力を育む。言い換えれば、知りたい、もしくは知ってほしいという感情は、世の中を動かす「可能性」を生むのだ。
たとえ、その感情が他者から見れば歪んだものだったとしても、それを否定したり、されたりすることで、その「可能性」の芽が摘まれてしまうのはもったいない(もちろん、好かれる側の迷惑になってしまうことは絶対に避けるべきだが)。
私自身は、小さい頃から地味で根暗で、友達は欲しいけれど自分からは誘えないような目立たない子どもだったので、幸か不幸か、好きなものをこっそり好きだと言い通すことができた。
そのおかげで、成長過程においても趣味・嗜好をあまり曲げることなく、今こうやってエッセイなんぞを書かせていただけるようにもなった。
この本には、そんな私が美しいと思うものが徒然なるままに並んでいる。
せっかく手にとってくださった方にわざわざ言うのもナンだが、なかには「生まれ変わっても理解できない」と思うようなものも入っていることだろう。どんな思い入れがあるんだろうと期待してページをめくったら、大したことは語られずに終わってしまう項目も、たぶんある。
だが、「世の中にはこんなものを美しいと思う人間もいるんだ」「こんなに薄っぺらい理由で何かを好きって言ってもいいんだ」と、読んでくれた人の心が少しでも楽になったり、そんな感覚も面白いじゃんと思ってくれる人がいるのであれば、私のみっともない昔話から恥ずかしい性癖までを晒すことにも意味を見出せるのではないか、と思っている。