幼少期からアフリカの人々の美しさに強烈に心惹かれ、23歳のとき単独で初めてエチオピアに渡った、ヨシダナギさん。好きなものを追いかけ続けた結果、フォトグラファーとして活躍する彼女の生き方と作品は若者を中心に指示され、写真展は1年で10万人を動員するなど、注目を集め続けています。
昨秋発売のヨシダナギさんの著書『贔屓贔屓(ヒーキビーキ)』は、読者から「自分にはなかった視点で面白い!」「好きなものは好き、という気持ちを大切にしたくなりました」など、反響をいただいております。
話題の本書より、担当編集が特に贔屓にしている箇所を抜粋してお届けします。
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ドラァグクイーン
私の写真は、「ヨシダナギにしか撮れない」と言っていただける反面、「ヨシダナギが撮るとみんな同じになる」とも言われる。
これは私にとっては褒め言葉なのだが(自分が美しいと思ったものを同じように撮っているのだから当然だ)、そのおかげで、アフリカから世界の少数・先住民族へと被写体の幅を広げても、その評価にあまり変化はなかった。ヨシダにとっては大きな一歩も、世間には動いたことすら気づかれなかったのだ。
ただし、私は写真を撮りたいわけではない。私自身が少数民族や先住民に興味があり、彼らに会いに行く手段として写真があるだけで、もとより自分が興味のない人の写真を撮ろうとは思わないし、そのためにわざわざ地球の裏側まで行く気もない。
これまでのところ、自分が希望して行ってみたら想像と違っていて、正直イマイチだったな……と思った民族がいないわけではないが、少なくとも、自分の食指が動かない被写体を撮るつもりはない。それが、相手に対する礼儀だとも思うのだ。
それに、自分が美しいと思う少数民族・先住民のことを、自分以外の人にも知ってもらいたいのに、みんなが興味を持つような写真や映像が他になかったから、仕方なく自分で撮っているに過ぎない。言い換えれば、誰かが撮ろうと思えば撮れる被写体であれば、私が撮る必要はないのだ。
同じ理由から、私は人物以外を撮る気はない。美しいものや美しい風景は、すでにたくさんの人が撮っているからだ。しかも、私よりも格段にうまい人たちが。
……と、天性の頑固さを発揮して、少数民族と先住民ばかりを追いかけていたのだが、その反面、マネージャーは焦っていた。そろそろ他の被写体を見つけないと、飽きられるのが先か、撮るものがなくなるのが先かはともかくとして、いずれフォトグラファーとしてやっていけなくなるに違いない、と。
そこで2年くらいの間ずっと、いろいろな案を出してくれてはいたのだが、どれもこれもピンと来ず、ほぼ諦めかけていたときに、ふと閃いたのが「ドラァグクイーン」だったのだ。
ありがたいことに、その話に乗ってくれる出版社も見つかった。おかげで、ニューヨークとパリで総勢18人のドラァグクイーンたちを撮影した写真集『DRAG QUEEN -No Light, No Queen-』(ライツ社、2020年)を出すことができた。
私がドラァグクイーンという人たちを知ったのは、数年前に『プリシラ』という映画を観たのがきっかけだ。
当初から自分の被写体として目を付けていたわけではなく、「少数民族・先住民の次」を探す過程で、被写体になりそうな人の写真をあれこれ見ていたときに、改めてその姿が目に留まった。彼女たちの中に、私を惹きつける何かがあったのかもしれない。
今にして思えば、それは立ち姿だ。クイーンの立ち姿には、少数民族や先住民たちと重なる美しさがある。
ドラァグクイーンと言ってもいろいろなタイプがあって、お人形のように綺麗な人もいれば、まるで異世界のキャラクターのような人もいる。
また、男性が女装するのがドラァグクイーンなのだとばかり思っていたが、実はそうではなく、どうやら今は、ドラァグクイーンになるのに性別は関係ないらしい。男でも女でもいいし、ゲイでもゲイでなくてもいいという。
ドラァグクイーンとは、ルールのない自己表現なのだ。何らかの苦しみを抱えていて、それを世の中に伝えるためにああいう格好をしているのだろう、という私の偏見も見事に覆されたわけだが、そんな彼らの生き様は神々しくもあった。
撮影の前後には、ひとりずつにインタビューもさせてもらったのだが、とにかくみんな優しいことに驚いた。
クイーンたちには、SNSで格好良い人を探して連絡を取ったり、いろいろなツテをたどったりして、撮影に集まってもらっていた。モデル料は払っているものの、LGBTQでもなければドラァグの意味すら知らなかった完全なヨソ者の私が撮ることを面白く思わない人もいるかもしれない、という不安が私の中にはあった。
だが、彼女らの態度は私の想像とは真逆で、寧ろ「よく私たちを選んだわね」と大いに歓迎してもらえたのだ。「人に優しくするのがドラァグ」だと話してくれた人もいるくらいだ。
それに、彼女らの写真はやっぱり美しかった。立ち姿は言うまでもないが、その圧倒的な存在感は、アフリカの少数民族にも負けてはいなかった。
それもそのはずで、彼女たちは、なりたい自分の姿になるために3~5時間もかけて究極の変身をしている。最高の自己表現を目的にして、あの姿を作っているのだ。自分がいちばん美しく見える姿勢や表情もよくわかっているし、自分の見せ方がうまい上に、そもそも写真に撮られ慣れている。
つまり私は、そのまんまの彼女たちを前にしてシャッターボタンを押しただけ、とも言える。またしても、被写体のおかげで新たなる作品が生まれたということだ。