幼少期からアフリカの人々の美しさに強烈に心惹かれ、23歳のとき単独で初めてエチオピアに渡った、ヨシダナギさん。好きなものを追いかけ続けた結果、フォトグラファーとして活躍する彼女の生き方と作品は若者を中心に指示され、写真展は1年で10万人を動員するなど、注目を集め続けています。
昨秋発売のヨシダナギさんの著書『贔屓贔屓(ヒーキビーキ)』は、読者から「自分にはなかった視点で面白い!」「好きなものは好き、という気持ちを大切にしたくなりました」など、反響をいただいております。
話題の本書より、担当編集が特に贔屓にしている箇所を抜粋してお届けします。
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色
私の写真作品は鮮やかな色合いをしているものが多いため、ひょっとすると、私自身も鮮やかな人間だと思ってくださっている人もいるのかもしれないが、とんでもない。最近ようやく多少の社交性を身につけて、自分でも少しは明るくなったかなと思うが、根っからの人見知りで引っ込み思案、なおかつ、とことん根暗だ。
そんな私の写真における色遣いに、人とは違う何かがあるとすれば、それは私が「色の組み合わせ」への意識が少しばかり強いからだと思う。
もともと私は「色」というもの自体を美しいと感じているが、その大きな要因は、それぞれの色が持つ心的印象によるところが大きい。
色は、そもそも物体がなく、ただ人の目が受ける刺激に過ぎないはずが、その濃淡だったり、色の付いた物の質感であったり、あるいは見る人や場所によっても、全く違う印象を与える。
そんな色の印象が特に大きく変わるのが、他の色と組み合わさったときだと思っている。単体ではアクの強すぎる色が、他の色と一緒に使われることでマイルドになったり、反対に、それ自体は冴えない色味でも、別の色の隣に持ってくると、いきなり主役級の存在感を放ったりもする。
そんなふうに、私は色を見たときに「何色と組み合わせると、この色はいちばん引き立つか」というふうに考えているのだ。今の数百倍も根暗だった子ども時代に、ひとりおままごとをしまくった名残なのか、色をおもちゃの人形に喩えて、「このコは、どのコと一緒に遊ばせたらいいかなぁ」などと妄想している。
おそらく、私自身のこともそんなふうに見てもらいたい、という密かな願望があるのだと思う。
私ひとりでは誰の目にも留まらないから、私を引き立ててくれる人が必要だし、私に合う人をあてがってもらいたい。そんな感情移入を一方的にして色を眺めているのだが、色のほうからすれば余計なお節介だろう。
そのくせ、私は黒の洋服しか着ない。テレビやトークショーに出るときだけでなく、基本的にプライベートでも黒一色だ。
黒を選ぶ理由としては、色として好きだということも当然あるが、顔に締まりがないせいで人としてユルく見られがちなことが長年のコンプレックスだったため、せめて服だけでも強そうに見せたい、という思いがある。
また、私は外で知らない人に声を掛けられるのがとにかく嫌なのだが(特にナンパやキャッチ)、「彼らは黒装束には声を掛けない」という都市伝説を耳にして、それ以降、黒を鎧のごとくまとうようになった、という経緯もある(効果はテキメン!)。
他にも、黒同士ならコーディネートが楽、年を重ねてもずっと着られるからお得など至って実用的な理由もあり、いずれにせよ、私が黒ばかり着ているのは、黒がいちばん好きだからという理由ではない(とは言え、好きだが……)。
では、黒以外にどんな色が好きなのかと言えば、基本的に、グレーがかった色合いを美しいと感じる。
コンクリートやモルタルの壁くらいの薄いグレーがいちばんの好みで、他には、同じくらいのグレーが入った青や黄色、紫などだ。鮮やかな青・黄色・紫に、薄いグレーのフィルターをかけたような色、と言ってもいいのかもしれない。
そういう色を見ると、私は「気持ちいい」と感じるのだ。
この「気持ちいい」というのは、爽快といった意味ではなくて、自分の中にある色のパレットにぴったりハマった感じ、とでも言おうか。もちろん「美しい」とも思うのだが、それよりも「気持ちいい」という表現のほうがしっくり来る。それらの色が組み合わさっていると、安心感すら抱く。
だから、身の回りに置いている家具などもそういう色合いのものが多く、以前、インテリアデザイナーに私の部屋の写真を見せたところ、「シャビーだね」と言われたことがある。グーグル先生によると、「みすぼらしい」とか「古めかしい」という意味らしい。
だが、私は決して、みすぼらしい色や古めかしい色が好きなわけではない。また、グレーがかった色合いを言うときに「くすんだ」という言葉が使われるが、これもあまり好きではない。
最近は「くすみカラー」などとも呼ばれ、そのような色がトレンドになっているらしいが、そこにはネガティブで地味というニュアンスが込められているような気がする。そのせいで、まるで「自分が地味だから、地味な色が好きなんです」と言っているようにも聞こえる。でも、そうじゃない。
私はただ純粋に、グレーを美しいと思い、グレーがかった色味が好きなだけだ。気持ちがいいのに理由なんてない。
「じゃあ、なんで作品はあんなに鮮やかなんだ」と言われるかもしれないが、それは仕方ない。なぜなら、そもそも私は自分の作風が好きではないからだ。
こんな言い方をすると応援してくれているファンには申し訳ないが、私自身は、被写体である少数民族やドラァグクイーンを美しいとは思っても、自分の作品を美しいと思ってはいない。
一部の人によれば、私の写真では緑が特徴的らしく、「ヨシダグリーン」と呼んでいただいたこともある。ほとんどが屋外、しかも大自然の中で撮っているため、緑が多いのは当然なのだが、何を隠そう、私は緑が苦手だ。
それこそグレーがかった緑ならいいのだが、輝く鮮やかな森の緑などは、撮影時につらくなるのはもちろんのこと、画像を編集していても具合が悪くなるほど。それくらい、作品と私個人とはかけ離れているのだ。
自分が好きなもの、自分自身で美しいと思えるものを作品にするアーティストも大勢いるだろう。だが私の場合、たまたま強めにレタッチ(画像加工)をかけたら大いにウケて、そのおかげでフォトグラファーという職業を得られてしまったので、それを続けているに過ぎない。あと、それでしか勝負できない、という切実な問題もある。
私が個人的に好きな写真は、例えばグレゴリー・コルベールという人の作品で、ちょっと不思議なセピア調の作品で有名だ。だが、私にはああいう写真は撮れないし、撮りたいとも思わない。
というのも、グレゴリー氏の写真は、技術や世界観がすごいのは言うまでもないが、あの一枚を撮るまでの過程と、そこに懸ける労力がとんでもないのだ。
一方、それを想像しただけで失神してしまいそうになるヘタレ、それが私だ。そんな圧倒的に秀でた人がすでにいる土俵に、あえて戦いを挑むほどの根気も執念もセンスもないことは、自分がいちばんよくわかっている。
それよりも、自分が少しでも他の人より勝っているらしいところにしがみつく、というのが私のフォトグラファーとしての生き残り戦略なのだ。
そして、そのひとつが「色」であり、「色の組み合わせ」なのだと思っている。だから、撮影のときは色の配置やバランスを決めることにかなりの時間をかけるし、具合が悪くなりながらもレタッチをかけるのだ。
ただ、そうは言っても、いつまでも少数民族・先住民だけでは飽きられてしまうので、フォトグラファーとして少しでも長生きするには、私のこういう強みを生かせる被写体を、もっと開拓していかないといけない(と、マネージャーからしつこく言われている)。それに、少数民族以外を撮影することにより、これまでの民族作品に、もっと光を当てられるのではないか……とも思うのだ。
ちなみに、いちばん好きな色、美しい(気持ちいい)と思う色はグレーだが、それとは別に「憧れの色」というものが私にはある。それはベージュだ。
私にとってベージュは、生(き)のままの色。それなのに、似合う人にしかまとえない色でもある(私がベージュを着ると、顔が全面に出すぎて、かつ、スッポンポンに見えるという悲劇が起こる)。
何ものでもない、儚(はかな)い存在。そんなベージュに、私はなりたい。