幼少期からアフリカの人々の美しさに強烈に心惹かれ、23歳のとき単独で初めてエチオピアに渡った、ヨシダナギさん。好きなものを追いかけ続けた結果、フォトグラファーとして活躍する彼女の生き方と作品は若者を中心に指示され、写真展は1年で10万人を動員するなど、注目を集め続けています。
昨秋発売のヨシダナギさんの著書『贔屓贔屓(ヒーキビーキ)』は、読者から「自分にはなかった視点で面白い!」「好きなものは好き、という気持ちを大切にしたくなりました」など、反響をいただいております。
話題の本書より、担当編集が特に贔屓にしている箇所を抜粋してお届けします。
* * *
サヨリの尻尾
サヨリ、という魚をご存知だろうか。細くて平べったくて、口先が針のように長く尖(とが)っており、冬から春にかけてが旬の、白身の高級魚……らしい。私は別にこの魚が好きなわけではないため、こうした情報は、今、初めて知った。
だが、「美しいと思うものは?」と聞かれて、必ず思い浮かぶのが「サヨリの尻尾」だ。
今回、この本のために、私が美しいと思うものをひととおり書き出してみた。筆頭は、もちろん「世界の少数民族・先住民」。そして、それに続くのが……「サヨリの尻尾」だったのだ。「ブラックルチル」や「溜まりのフォルム」などを抑えて、堂々の第2着である。
あれは、16歳か17歳の頃だったと思う。当時、私はグラビアアイドルなんぞをやっていたわけだが(高校には行っていない)、それだけで十分な食い扶持(ぶち)を稼げるはずもなく(もし稼げていたら、今ここにいない)、母親に紹介された居酒屋でアルバイトをしていた。
あるとき、客が帰った後のテーブルを片付けようとしたところ、皿の上に、小さく光るものがあった。それは、雨上がりの水たまりに浮かぶガソリンのような、弱々しい虹色に輝く、薄くて透明な何かだった。
ヨシダがサヨリの尻尾に出会った決定的瞬間である。その尻尾は、サヨリの刺身に添えられていたものらしかったが、とにかく、私はそれに一目惚れしてしまったのだ。
サヨリは、漢字では「細魚」とも書かれるくらい身が細いのが特徴で(これも、さっき知った)、尻尾(正確に言えば「尾鰭」)も、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、生のままの尻尾には薄い膜を張ったような光沢があり、居酒屋の蛍光灯の下で、ひっそりと輝いていた。
それまでサヨリなど食べたことがないし、そんな魚がいることも知らなかった私は、まさか客が残した皿の上で、こんなにも繊細なものと遭遇するとは思いもせず、その美しさに感動したのだった。
「こんなに綺麗なものを捨てるなんて、とんでもない」
そう思った私は、尻尾を胴体の骨から手で引きちぎり、エプロンのポケットにそっと忍ばせた。それからは、客がサヨリの刺身を注文する度に、私は率先してそのテーブルを片付けに行き、尻尾をちぎってはポケットに入れる、という行為を繰り返していた。
しばらくして。私が店にいないときに、他のアルバイトの子が私のエプロンがハンガーから落ちているのを見て、かけ直そうとしてくれたらしい。持ちどころが悪かったのだろう。エプロンを拾い上げた瞬間、ポケットからバラバラと何かが落ちてきた。サヨリの尻尾だ。しかも大量の。その子はゾッとしただろう。
店の人によれば、私が片付けのときにテーブルでゴソゴソとしていることには気づいていたらしい。だが、「つまみ食いでもしているのかな」「そんなにお腹が空いているのかな」と思って、何も言わなかったそうだ。
それが、よもやサヨリの尻尾を集めていようとは……。なんでこんなことをしたのか? と大いに問い詰められたのは言うまでもない。結局、せっかく集めた尻尾も丸ごと捨てられてしまった。
一体、私は何をしたかったのか。今から思えば、本当にただただ、これほど綺麗なものを捨てるのが「もったいなかった」だけだったのだろう。
そのときは一応、ポケットの中で乾かしてから家に持って帰って、箱の中にでもしまっておこう、という考えはあった(どうして溜めていたのかと聞かれれば、1枚ずつ持って帰るのは面倒だったからだ)。
だが、そうやって大事に箱にしまったところで、いつかは捨ててしまっていたことは間違いない。
実際、せっせと集めたものを一気に捨ててしまうことが、私にはよくある。どんなに熱中していたものでも、ある日突然、その熱が冷めてしまう瞬間が来るのだ。
というよりも、好きになったら一気に頂点まで突き進んで、もうそれ以上は行けないところまで来たら、一転して急降下する、というのがパターンになっているのだ。それが自分でわかっているから、捨てるために集めている、と言えなくもない。
私は、根がコンプレックスの塊(かたまり)で、他人に自慢できるようなものはほとんど持ち合わせていないが、この執着心のなさは、我ながら結構好きだったりもする。
で、サヨリの尻尾である。念のため言っておくと、居酒屋での収集活動がバレてからは、もう集めることはしていない。尻尾を見るために、わざわざサヨリの刺身を注文するようなこともない。最初の熱が冷めたからとも言えるし、ずっと置いていたら臭くなるということに気づいたからでもある。
だが、最初の出会いからもう20年近くになるが、いまだに「美しい」から連想するものの中での地位は揺るがない。しかも、少数民族とツートップを張るほど盤石だ。それほどまでに、あのとき居酒屋で初めて見たサヨリの尻尾の衝撃は大きかったし、今でも美しいと心底思う。
ちなみに、美しいのは生のサヨリの尻尾だけだ。焼いたりしたものでは、あの独特の光沢感や透明感がなく全く美しくないので、その点はご注意願いたい。