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本屋の時間

2022.07.15 公開 ポスト

第138回

見えている/見えていない辻山良雄

〔撮影:齋藤陽道〕

先日、新しいメガネを購入した。ひと月のあいだに二回、お釣りの硬貨を見間違えるという失敗をおかしてしまい、これはもうダメだと観念したのだ。

それまで使っていたメガネは、何回かフレームとレンズを交換しながら、二〇年以上同じ型のものを使用してきた。訊けばさすがに同じものは製造されていないという。レンズも前回変えたのがいつか、もう覚えてはいないが(少なくともTitleがオープンしてからは変えていない)、コーティングも剥げかかっていたから、潮時だったということなのだろう。

 

新しくできあがったメガネをかけると、これが遠くのほうまではっきりとよく見える。そのあとこれまでかけていたメガネに戻してみると、急に目の前に白い膜をかけられたかのように、世界が古ぼけて見えた。

これまで随分見逃していたものがあったに違いない。

その時ははっきり見えたというよろこびよりも、目の前に映っていた景色を疑いもせず、「これが世界なんだ」と思い込んでいたそれまでの自分に、危うさと恐れとを感じてしまった。

 

そのようなことを考えていたとき、レイモンド・カーヴァ―の代表作である、「大聖堂」という短篇小説を思い出した。以下、あらすじを少しだけ紹介してみる。

主人公の「私」の家に、妻の長年の友人である盲人のロバートがやってくる。「私」はそのことを面白く思っておらず、「目が見えないというのもうっとうしかった」。しかしソファーに並んでウィスキーを飲み、一緒にマリファナを吸ってテレビを見ているうち、二人は次第に打ち解けていく。

夜も更け、「私」はロバートから、テレビに映る大聖堂の姿を教えてほしいと頼まれた。彼は四苦八苦しながら、言葉だけで大聖堂のことを説明しようとする。そしてそのあと二人は手に手を重ね、一緒に大聖堂の絵を描くのだった……。

この話には、小さな〈赦し〉の感覚がある。最初盲人に偏見のあった「私」は、自分とは違うものを受け容れる寛容さがなかった。しかし、彼はただ知らなかっただけなのだ。ロバートという男について、そして目が見えないという痛みに関しても……。

ロバートの見ている世界を自らの手でなぞったとき、彼が赦したのはロバートのみならず、思い込みを捨てられなかったそれまでの自分自身でもあったのだろう。

思えば誰かに対するわだかまりとは、多くの場合、その人のことをよく知らないということに起因する。主人公の「私」と同じように、わたしたちには多くのものが〈見えていない〉のだ。

以前勤めていた職場では、頻繁に本の出張販売を行っていたが、あるイベントの際、販売応援にやってきたのがNだった。

彼のことはわたしを含め、職場の皆が遠巻きにして眺めていた。手が空いたらすぐ他のアルバイトの女性に話しかけ、勝手にレジから離れてしまう。髪は少し脱色しており、職場の上層部の人間からは睨まれていた。彼にはその場にそぐわない雰囲気があった。何というか、軽かったのだ。

Nはちゃんとやるのだろうか……。

そんなこちらの心配をよそに、実際の彼の仕事ぶりはテキパキとしたものだった。本の値段を確認し、お金をコインケースに入れると、頼んでもいないのに辺りにいる人に声をかけはじめた。

〇〇先生の本、こちらで販売してます!

休憩時間中、Nは自分のことを屈託なく話してくれた。彼のお父さんがこのアルバイトを見つけ、彼に勧めてくれたこと。でもお父さんのことはそんなに好きではなく、本はマンガしか読まないこと。

「ここのアルバイトは好きだけど、少し堅いと思います」

わたしもそれを聞いて笑った。NにはNなりの、職場の見方があるのだ。

「まあ、確かに堅いよね」

休憩時間のあとは、お互いもう少し打ち解けた空気で仕事をした。

 

それ以降、Nがいるフロアを通りかかったとき、わたしは以前よりもわだかまりなく、彼を見ることができるようになった。わたしはNのことを少しだけ知り、いつの間にか彼を赦していたのだ。

そんなNだったが、気がつけばその姿を店で見かけることはなくなった。フロアの人に聞くと、以前からやりたかった仕事に空きが出て、少し前に辞めたのだという。

いったい、何の仕事なんでしょうね。

それを聞いてわたしは残念に思ったが、彼のことをよく思っていなかった店の上司は、少しほっとした様子だった。

 

今回のおすすめ本

『AHIRU LIFE.』SANAE FUJITA よはく舎

気どらず、素朴でいることを易々とやってのけるアヒルたち。それはいまの世界でほんとうに尊いことだから、わたしたちは彼らに心を許してしまうのだろう。1巻と2巻が発売中です。

 

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

○2024年11月15日(金)~ 2024年12月2日(月)Title2階ギャラリー

三好愛個展「ひとでなし」
『ひとでなし』(星野智幸著、文藝春秋刊)刊行記念

東京新聞ほかで連載された星野智幸さんの小説『ひとでなし』が、このたび、文藝春秋より単行本として刊行されました。鮮やかなカバーを飾るのは、新聞連載全416回の挿絵を担当された、三好愛さんの作品です。星野さんたってのご希望により、本書には、中面にも三好さんの挿絵がふんだんに収録されています。今回の展示では、単行本の装画、連載挿絵を多数展示のほか、描きおろしの作品も展示販売。また、本展のために三好さんが作成されたオリジナルグッズ(アクリルキーホルダー、ポストカード)も販売いたします。

※会期中、星野さんと三好さんのトークイベントも開催されます。
 

【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト

◯【書評】

『アウシュヴィッツの小さな厩番』ヘンリー・オースター [著]/デクスター・フォード [著]/大沢 章子 [訳](新潮社)ーーアウシュヴィッツを含む3つの強制収容所を生き延びたユダヤ人が書き残した悪夢のような日常とは? [評]辻山良雄
(Book Ban)

『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)

◯【お知らせ】

我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」

シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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