コロナ禍、身近な人を亡くして、十分なお別れができなかった――という方は多いのではないでしょうか。東工大の教授(メディア論)である著者・柳瀬博一さんは87歳の父を亡くし、納棺師の女性の勧めで、突然、父親の「おくりびと」になりました。そのリアルな体験から、家族の死とどう向き合うのか? というプリミティブな感情を綴った『親父の納棺』より冒頭をお届けします。優しい挿絵は『ひぐらし日記』の日暮えむさんです。
* * *
第1章
2021年5月20日木曜日の昼。机上のiPhoneがぶるぶると震えた。
あ、来たか。
私は東京の自宅の部屋にいた。勤め先の東京工業大学の仕事の真っ最中である。
2020年春からのコロナ禍に対応して、大学の全授業と全会議がZoomで開催されるようになった。この日も午前中に会議をひとつ終えたところだ。夕方には大学の教授会 がある。その間に、とある新雑誌から依頼された原稿に関する打ち合わせが入っていた。 コロナ禍とZoomが生んだ、会議と打ち合わせのつるべ打ちである。
「いま、病院」
母の声だ。静岡県のとある街の一軒家に暮らしている。昨年までは父と二人で。いまは一人で。
「お父さんと代わるね」
この日の朝8時、母親からは、すでに1回電話をもらっていた。
「病院から、電話があったの。すぐ来てほしいって」
親父が入院している病院の先生からだという。
先生が母に伝えたのはたったひとこと。
「あぶないかもしれません、来てください」
母はタクシーを呼んで病院へ向かい、親父のベッドの枕元に座った。そして私に電話をかけている。
このタイミングで病院が「来てください」と言うのはよっぽどのことだ。
1年以上にわたって猛威を振るう新型コロナウィルスの感染拡大もあり、病院が外部の人間を院内に呼ぶことはご法度に近かったからだ。
コロナが蔓延し始めた2020年3月末、志村けんさんが亡くなったときのことを覚え
ている人は多いだろう。
3月17日、倦怠感を訴えた志村さんは、20日に病院で診断を受け、重い肺炎を患っているとして入院、治療を受けていた。所属事務所が新型コロナウィルスに感染していると公表したのは同25日である。
病状は改善せず、わずか4日後の29日、志村さんはこの世を去った。まだ70歳だった。
1970年代に小学生だった私にとって、志村けんさんはリアルタイム・ヒーローだっ た。荒井注さんと交代でザ・ドリフターズのメンバーになり、『8時だョ! 全員集合』では、「東村山音頭」で一気にブレイクし、音楽、ダンス、ラップ調のトーク、スピーディ ーなコントを展開した。
デビュー当時からリアルタイムでその活躍を見ていた志村けんさんは、 年代の小学生 にとって「俺たちが育てた!」芸能人だった。そんなマイ・ヒーローが、コロナに罹っ て、あっけなく亡くなった。
志村さんの死は、私たちに残酷な事実を突きつけた。コロナウィルスに罹った人には、 入院中はもちろん、亡くなっても火葬場で灰になるまで家族が会うことすらかなわない。 志村けんさんのお兄さんの談話が、2020年3月30日付の朝日新聞電子版に残っている。
志村さんの兄の知之さん(73)は30日午後、「顔を見られずに別れなくてはならなくて、つらい」と声を詰まらせた。志村さんが入院した後は面会できないままで、遺体にも会えていないという。
厚生労働省はガイドラインで、新型コロナウィルスに感染した人の遺体について、「非透過性納体袋に収容、密封することが望ましい」とし、葬祭業者に対して、遺族等の意向にも配慮しつつ、「極力そのままで火葬するよう努めてください」としている。
志村さんの死とときを同じくして、コロナウィルスに対する日本人の考え方、そして日本政府の対応は「隔離」方向に舵を切った。
病院をはじめとする医療機関、老人ホームや福祉施設には、患者や入居者、医療関係の当事者、従業員を除くと立ち入りがいっさい禁止となった。
県外移動も自粛となった。
2020年4月、午前8時の山手線の光景をいまでも覚えている。ほんの1週間前まで、体を捻らなければ身の置きどころのなかったあの通勤ラッシュが一瞬にして消えた。
平日朝なのに座れる。そして座っている人は全員マスクをしている。咳などしようものならば、周囲の目が集中する。実際にそうじゃなくても、そんな気がしてしまう。
戦後どんな手段を講じても、けっして改善することのなかった東京の通勤地獄は、中国からやってきた目に見えない「生物と非生物のあいだの存在」=ウィルスによって、瞬時に解消してしまった。
それから1年。2021年春になり、コロナウィルスについての社会の知見は積み重なったが、感染拡大は止まる気配がなかった。ワクチンの普及も、治療薬の登場も、まだ先のようだった。病院や老人ホームに一般人が立ち入ることは、たとえ家族であっても禁じられていた。ましてや、感染者が多い東京から地方に行くのは、どんな用事があろうともはばかられた。
そんな時期にもかかわらず、親父が入院する病院のほうから、母に電話があったのだ。
「すぐに来てください」と。理由は、ひとつしかない。
母は病院に向かい、これまでなかなか会えなかった親父の枕元に寄り添い、私に電話をかけている。
「もしもし」
私は応えた。
「お父さん、博一よ」
母が病床の親父に声をかける。
「親父、俺だ。博一だ、元気かい?」
「……」
「聞こえる?」
「……」
声はしない。でも、息が、聞こえた。
ふう。ふう。
「あ、ちゃんと、わかってるみたい、反応してる」
「親父、どう? 病院、楽しい?」
ふう。ふう。
「鰻とか、食べてる?」
「バカっつら! やいやい、なに言ってるだ!」
親父が浜松弁でそう言ったような気もする。
実際に聞こえたのは、ずっと、「ふう、ふう」という息遣いだけだ。「今日も、看護師さんたちに、すっごく面倒みてもらってる」
母親が言う。
「いいご身分だなあ」
私が突っ込む。いや、ボケる。
ふう。ふう。
「ちょっと笑ったかも」
母が親父の様子をスマホで中継する。
「そういや、去年書いた『国道 号線』の本、また増刷したよ。今度、マツコ・デラックスの番組に呼ばれることになった。出たら見てくれ」
ふう。ふう。
くだらない話を、一方的にした。20分か。30分か。
「じゃ、親父、またな」
これが親父との最後の会話だった。
いや、あれは会話じゃないな。私が一方的に話しただけだ。
数時間後の夕方5時。私は大学の教授会に自宅からZoomで出席していた。
手元のiPhoneが振動した。
母からだ。
「お父さん、死んじゃった」