コロナ禍、身近な人を亡くして、十分なお別れができなかった――という方は多いのではないでしょうか。東工大の教授(メディア論)である著者・柳瀬博一さんは87歳の父を亡くし、納棺師の女性の勧めで、突然、父親の「おくりびと」になりました。そのリアルな体験から、家族の死とどう向き合うのか? というプリミティブな感情を綴った『親父の納棺』より冒頭をお届けします。優しい挿絵は『ひぐらし日記』の日暮えむさんです。
* * *
このとき、86歳の親父は元気だった。
翌日3月1日、日曜日。朝から日差しが暖かい。春だ。
庭に面した和室。床の間にはひな人形が飾られていた。妹が生まれたときに買ったものだ。私が小学2年生のときからずっと見ているまんまる顔のひな人形。
その和室の襖を開け、濡れ縁に座る親父と母を撮る。
これからも何度も春になると、二人のこんな写真を撮るんだろうな。ぼんやりそう思ったことをなぜか覚えている。
昼になる前、親父と母を車に乗せてドライブをした。
街の中心から北に延びる古い街道をずっと走る。行きつけの鰻屋に入る。
せっかくだ、特上を頼もう。サイドメニューには、浜名湖産のカキフライを。
親父は健啖だった。
分厚い鰻をぱくぱく食べ、飯粒ひとつ残さなかった。
「うまいねえ」
「うまい」
腹ごしらえが終わり、街道をさらに北上し、大きな川を渡り、山間の道を抜け、水をたたえたダムに着いた。
親父と母がまだ自分たちで車を運転していた頃、夫婦二人できたという場所だ。梅が満開だった。山の峰に、風力発電の風車がのんびり回っているのが見える。
「今度は、かみさんと娘も連れて、このあたりの桜を見にきたいなあ」
「ま、来年か、再来年か、コロナが収まる先だね」
帰りの車中で、親父と母とそんな話をしながら自宅に戻る。
夜中11時すぎ、私は東京に戻るため家を出た。翌月曜日には、朝から仕事がびっしり入っている。
「じゃあ、また」
「おう、また今度」
親父と母が、自動車の窓から手を振る私を見送る。
「今度」はなかった。
生きた父と実家で過ごしたのは、これが最後となった。
3ヵ月後の2020年6月。親父が突如、夜、家の中で倒れて、起き上がれなくなった。そのショックのせいだろうか、誰が誰だかわからなくなった。
もともと心身ともに老いが進行していた。いささか認知症の気配もあった。それでも母のサポートでなんとか「普通の生活」をこなしていた。
この日、親父の状態は、心も体も一線を越えた。
母は救急車を呼び、親父はそのまま入院となり、そして家族の誰とも会えなくなった。
新型コロナウィルスの感染者は増える一方で、東京オリンピックの開催が翌年に延期になった。
欧米ではたくさんの人が亡くなっていた。テレビをつければ、ニューヨークで遺体がそのまま埋立地に埋葬される映像が流れていた。比喩ではなく、戦争状態だ。目に見えないウィルスに、人間たちは指数関数的な速度で侵されていった。
ワクチンも、治療薬も、まだ影も形もなかった。
病院では、全入院患者が面会謝絶だ。電話での会話ですら対応してもらえなかった。
私や弟が東京から向かって、会うことなどもってのほかだった。なにせ、地元にいる母ですら病院に入れないのである。
入院してからさらに3ヵ月後、そんな私たち家族が親父に直接会うチャンスが訪れた。2020年9月のことである。
実家で突如として立ち上がることができなくなり、胃腸の状態が悪化し、さらには記憶力も低下した親父だったが、病院の治療の甲斐もあって体力は徐々に回復した。ようやく退院の目処が立った。
とはいっても、心身ともに相当衰えてしまっている。退院しても、母一人での介護は難しいだろう。コロナの心配もある。
家族の見解は一致した。特別養護老人ホームへの入所が決まった。幸いなことに自宅から2キロ足らずの近所にある。
老人ホーム行きを決めた頃に、病院から連絡があった。
「お父様の体力が回復したので、エレベーターホールでならば、みなさんで会う時間、つくれます」
東京から自動車で実家に到着した私と弟は、母をピックアップし、日曜日の病院に向かい、1階のエレベーターホールで親父を待った。
オフィシャルには会えない。だから病室には行けない。いまにしてみれば、病院側の特別の計らいだった。
エレベーターから車椅子に乗って降りてきた親父は、存外元気だった。
「おお、ひさしぶり」
女性の看護師さんが二人付き添ってくれていた。
「3人とも海外に行ってたのか?」
海外には妹家族が住んでいる。
親父、それ、妹だよ。俺たちは東京からだ。
「お父さん、博一ですよ」
母が言う。
「博一か」
ぎりぎりわかっている……ようである。
看護師さんのサポートで、車椅子から立ち上がる。
そのまま、てくてく歩き始める。
「歩けるじゃない!」
母がちょっと喜ぶ。
「わあ、ちゃんと歩けますね」
看護師さんが笑う。
「親父、ほめられたね」
と私。
「冗談言うな」
ニヤつく親父。まんざらでもなさそうである。
20分間の再会。
再び車椅子に乗り、看護師さんにサポートされ、エレベーターに乗る親父を見送る。
「またね」
「海外に戻るのか?」
戻りません! ……もしかすると、親父、本当に海外旅行に行きたかったのかもしれない。
エレベーターホールで会話したこのときが、生きた父親と直接顔を合わせた最後の瞬間だった。
病院の外に出た。夏の生き残りのクマゼミが鳴いていた。
1ヵ月後、病院を退院した父親は、予定どおり特別養護老人ホームに入った。
老人ホームでも、コロナ対策でいっさいの面会が不可能である。電話での通話も難しい。老人ホームなどでのクラスター発生、そして死亡というケースが全国でたくさん報告されていたから、ごく妥当な対策である。
が、まったく会えないのは、老いた親の介護において重大な問題をはらんでいる。入院して以降、親父は急速にボケが進行していた。
そりゃそうだろう。家族とのコミュニケーションがゼロなのだ。会わなければ会わないほど、やはりボケの進行は速くなる。このままだと、コロナが収まって会えるようになる頃には、家族のことをまったく思い出せなくなるかもしれない。
それは、困る。どうするか。
神を呼ぼう。
私は2020年4月から仲良くなった「神様」を呼び出すことにした。
Zoom神である。