「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」の中で、薄幸で死を前にした美しい女性、綾さん(京マチ子)に、「人間はなぜ死んでしまうのでしょうねえ」と問われ、寅さんは、「そうですねえ。人間が死なないと、陸が人間でいっぱいになって、ぎゅうぎゅう詰めになって、みんな立っていられなくなって、すみに立っていた人は、ぼちゃーんて海に落ちちゃったり、大変なことになっちゃうからじゃないでしょうか」(このセリフは正確ではない私の記憶です)と言うようなことを、すっかり身体が弱った綾さんに言って、笑わせるのだ。
この場面を観て、「寅さんの優しい言葉だなあ」と思ったのをよく憶えている。
この11月、義理の伯母の一周忌を迎えた。
母の兄である画家の伯父の奥さんである。
私は、この伯父のことを、小さい時から、「ちんちん」と呼び、何か困ったことがあると、この伯父夫婦に助けられてきた。
伯父夫婦には子供がなく、とても仲の良い2人であった。病気だった伯母は、夕食のあと、リビングで伯父とイスを並べて、夕日が落ちるのを眺めていたそうだ。伯母が伯父に右手をスッと差し出したので、伯父は、伯母の手を握って夕日を見ていたら、そのまま伯母の様子が急変し、その場で亡くなってしまったのだ。
私に伯母が亡くなったのを知らされたのは、翌日の朝だった。夜、知らせたら、一人暮らしの私が寝られなくなるという、みんなの思いやりだった。
私が翌日、伯父のうちに行くと、伯母はきれいにお化粧をほどこされ、ベッドに寝ていた。でも、もう私の親しんでいた、いつもの伯母ではなく、冷たく固く、遺体とはなんてよそよそしいのだろうと思わずにはいられなかった。
伯母が静かに死んでいる部屋の横のリビングで、伯父と伯母のお姉様と私の3人で、お通夜をした。宗教の儀式はやらないというのが、伯母の遺志であった。
伯父は、「いいシャンパンがあるぞ」と、伯母のお姉様と、グラスを酌み交わしていた。伯父はだんだん酔ってくると、「ミナ、おまえは今、書いているのか」と問う。「隠れキリシタンのことを書くって言っていただろう。あれは、どうした」と、私に言う。
私はうなだれ、「書いていません」と言うと、伯父は、いきなり怒鳴り、「オレは知っているぞ。おまえの文章がいいと和田さん(伯母平野レミの夫、故・和田誠)が、せっかく世に出してくれたのに、おまえは、それから全く勉強をしなかっただろう」と言う。
「おまえはバカ女だー!!」と伯父は怒鳴る。
私は、その通りなので、涙が溢れ、絨毯にぼたぼたと涙を落とした。
泣く私を見て、伯父は、「オレは今、こんなくだらない話しをしている場合じゃないんだ。オレは悲しいんだ」と、伯母の名前を呼び、伯母の寝室に走って行くので、私も追いかけて行く。
伯父は、伯母に覆いかぶさり、伯母の頬に自分の頬をくっつけ、泣きながら、「戻っておいでー」と叫ぶ。私は伯父が、伯父までが、違う世界に行ってしまうのではないかと怖くなり、伯父の片足にガッチリしがみつき、こちらの世界にいてくれるように引っ張り、「ちんちーーーん」と伯父を呼びながら、伯父のズボンを涙で濡らした。それを、伯母のお姉様がドアのところで、静かに見ていた。
ひとしきり泣くと、伯父は、スッと立ち上がり、「取り乱してごめんな」と言い、リビングに戻った。私もついて行く。
リビングに座ると、伯父はまたシャンパンをぐーっと飲み干した。これが痛飲というのかと思った。飲み干すと、また私を怒る。「おまえは何をやっているんだ。書かないで何をしているんだ。寝てるのか」と怒鳴る。私はまた、絨毯に涙をぼたぼたと落とす。
伯父が痛烈なことを私に言うとき、いつも横から伯母が助けてくれた。もうその伯母はいないのだ。
伯父は私を怒鳴ると、「オレはこんなくだらないことをしている場合ではない」と、言い、伯母の名を呼び、伯母の部屋に行く。私も伯父を追って行く。伯母の顔に頬擦りし、伯母の名を呼び泣く伯父の片足に私がしがみつき、私も泣く。そして、伯父は、リビングに戻り、シャンパンを飲み干し、私を怒る。
これを5周やったところで、静かに私たちを見ていたお姉様が、「今日はいいものを見せていただきました」と言う。私は絨毯の上にペッタリ座りながら、ハッとしてお姉様を見上げた。お姉様は、「平野家の伯父と姪の素晴らしい関係、素晴らしい芸術のお話に感動いたしました」とおっしゃるのだ。
伯父は、芸術の話しを私にしたが、私は、「ちんちんが思うより、私はバカなんだよぅ……」と言いながら、うなだれ、泣いていただけなのだ。
お姉様は、「私たちの実家は何でも言い合える平野家みたいな家ではありませんでした。だからこそ、妹も、平野さん(伯父・ちんちん)に惹かれたのでしょう」と言い、松原智恵子が少し歳をとったような美しいお姉様が、「さあ、踊りましょう」と言うのだ。
「踊る?」私は何のことだかわからず、キョロキョロしていた。そうしたら、伯父とお姉様がイスから立ち上がり、抱き合って踊り出したのだ。お姉様が、「さあ、ミナちゃんも」とおっしゃるので、私も伯父とお姉様と団子状態になり、抱き合い、ゆらゆら揺れるように踊った。伯父のほっぺが私のほっぺにくっつきながら、3人でゆらゆらと踊った。伯父のほっぺたやお姉様の背中がとても温かく感じた。
伯父は、「もう寝る」と言った。伯母の部屋に行って、伯母に頬擦りし、寝室にヨロヨロと向かって行った。
そのあと、お姉様と抱き合い、2人で台所で、また泣いた。お姉様が、「今夜はミナちゃんがいてくれて、本当に良かったわ。ありがとう」と言った。私の流した大量の涙も無駄ではなかったのかと思った。
伯父の家を後にするとき、伯父の寝室のドアを少し開け、中を覗くと、伯父はベッドに腰をかけ、両手で頭を抱えていた。その姿は、悲しみと苦悩と絶望を形にしたような姿に見えた。その姿がいつまでも、私の頭から離れなかった。
翌日、伯母は荼毘にふされ、四角い箱に入って、伯父の元に帰って来た。
この一年、最愛の人を失くした時の伯父の慟哭を思い出すにつけ、私も苦しかった。あの激しい悲しみ方、本当に私と伯父は似ていると思った。だから、私も愛する人を失くしたら、あの慟哭の真っ暗な穴に落ちるのかもしれない、いや、私もきっと落ちるのだと思ったら、生きるのが怖くなった。伯父に電話するのも怖くなった。
伯母の一周忌を迎える数日前、私は伯父に、伯父の大好きなオランジェットというチョコレートを送った。オレンジピールのチョコレートがけだ。悲しいときには、甘いものがいいかなと思ったのだ。
伯父から電話があった。「ミナ、チョコレート着いたよ。あれ、美味しいな。ありがとな」と明るい大きな声だった。
伯父に、伯母を亡くした悲しみとかそのあたりは、今どうなっているのかと尋ねてみると、
「ああ、それな。別れの苦しみも悲しみも、一過性のもんだな」と言うのだ。「ええっ」と、私が驚きの声を上げると、伯父は、「そうだよ、一過性のもんだよ、本当に」と言うのだ。
もっとしっとりと湿り気を帯びた返答がくるのかと思ったら、あっさりと言った。私は腰の力が抜けるような感じがしたが、一方で、安心した。そうか、一過性なのか。それなら、私もあまり怖がらなくてもいいのかもしれない。
でも、そう言えるまで、伯父がお医者さんのアドヴァイスで、眠剤を飲んだり、それでも眠れなくて、ワインをいっぱい飲んだり、苦しんでいたのを知っている。
伯母はあの3人のお通夜の日、怒鳴り、泣き、踊る私たちの狂乱を見ていたと思う。そして、一年経ち、「あれは、一過性のものだな」と言う伯父を見て、やっとあの世に旅立てたような気がするのだ。
さすらいの自由が丘
激しい離婚劇を繰り広げた著者(現在、休戦中)がひとりで戻ってきた自由が丘。田舎者を魅了してやまない町・自由が丘。「衾(ふすま)駅」と内定していた駅名が直前で「自由ヶ丘」となったこの町は、おひとりさまにも優しいロハス空間なのか?自由が丘に“憑かれた”女の徒然日記――。