ニッポン放送から独立した「倉本聰」は、「速く! 安く! うまく」を武器に、テレビ界・映画界に乗り込んだ。抱腹絶倒、波乱万丈、そして泣ける、痛快無比な倉本聰さんの自伝『破れ星、燃えた』より、様々な俳優・女優・文化人との交流のエピソードをお届けします。
巨匠・黒澤明監督と初めて会ったのは、黒澤氏の自殺未遂という大事件がきっかけだった。すっかり気に入られた倉本氏は監督から、一緒に『八甲田山氏の彷徨』の脚本を書こう、と持ちかけられたが……。
* * *
ハリウッドに招かれ、「トラ・トラ・トラ!」という作品に着手し、向こうの製作体制と衝突して黒澤明監督が自殺未遂を起こしてしまうという大事件が起きた。
僕の記憶と解釈では、多分編集権の問題がその直接の原因ではなかったかと思っている。
日本では撮り上げたフィルムを最後に編集するのは監督の仕事であり、編集こそ映画を完成させる為の最も重大な仕事だった。
だが分業の進んだハリウッドでは編集はあくまで編集家というエディターの独立した仕事であり、監督が編集に首をつっこむことは断固許されることではなかった。このことでハリウッドと黒澤さんは最後に衝突してしまったのではないか。映画製作という過程の中で、互いに譲れないこの部分が衝突し、黒澤さんはハリウッドから最後に馘を切られてしまったのではないか。
これはあくまで僕の推測である。
しかし絶望した黒澤さんは、自殺未遂事件を起こしてしまった。
事件を起こした巨匠黒澤は、日本の中でも孤立してしまった。
その頃。
黒澤夫人、その親友であった加藤治子さん、当時その夫君であった俳優高橋昌也さんから、黒澤さんが落ち込んでいるから一度飲みに行ってやってくれないかと誘いを受け、先生のマンションに遊びに行った。
先生の御子息である黒澤久雄が「2丁目3番地」に出ていたことから先生は僕の作品を何本か見て下すっており、ある程度の評価はして下すっていたらしい。お目にかかるのは全く初めてだった。タートルネックの首の間から自殺の傷痕がまだ生々しく少しのぞいていた。
「何か面白い原作はないかね」 黒澤先生が仰ったので、僕はのり出して一つの本のことを話した。
「新田次郎氏の『八甲田山死の彷徨』という本を最近読みました。中々面白い本でした」
すると先生は仰った。
「あれは病院で僕も読んだよ。確かに面白い。しかしね」
そこで先生は言葉を切り、ぐいと体をのり出された。
「あれは暗黒の、猛吹雪の中の遭難の話だよ。映画というものはね、マッチ一本の光でもあれば撮れる。だがあの話は殆ど暗黒の中の物語なンだよ。映画には一寸ならないね」
しかし──。
僕は思わず云いかけた。
たしかに暗黒の中の物語です。しかし、時々微かな光はある筈です! その中で激しい嵐の音、バタバタゆすられる天幕のシートの音。遭難者たちの息づかい。半分ラジオドラマのような世界の中で、黒澤さんなら全く新しい緊迫の世界を──。
そう云いかけて僕は止めた。
映像の巨匠、黒澤明にこんな失礼を、とても云うことはできないと思った。それから巨匠は僕に話しかけた。
「一緒に脚本を書かんかね」
「勿論! よろこんで!」
「それじゃあ来月あたり二人でヨーロッパに行こう。ギリシャあたりでクルーザーを借りて、一カ月あまりエーゲ海をクルージングして、その間にアバウトなストーリーを作ろう」
「──」
「それからパリにでもホテルをとって、一月(ひとつき)あまりそこにこもる。パリをぶらぶら散策しながら、うまいものを喰って、それでのんびりシノプシスをつくる。できたら少しハコ書きまで行ければ良い」
「──!」
「それから日本に帰って、熱海か湯河原の宿にこもる。一月(ひとつき)から二月(ふたつき)。まァ三月(みつき)もこもれば書き上がるだろう。どうかね、やらんかね」
「──!!!」
そりゃぁ勿論、やりたかった!
だが僕には殆ど毎週一本、書かなければならないテレビドラマがあった! 巨匠御提案のスケジュールは、スケールがちがいすぎて目がくらんだ。
哀れな修業中の三文ライターは、深く謝しつつも御遠慮するしかなかった。