ニッポン放送から独立した「倉本聰」は、「速く! 安く! うまく」を武器に、テレビ界・映画界に乗り込んだ。抱腹絶倒、波乱万丈、そして泣ける、痛快無比な倉本聰さんの自伝『破れ星、燃えた』より、様々な俳優・女優・文化人との交流のエピソードをお届けします。
富良野への移住計画を進める中、田中絹代さんの訃報が届く。絹代さんはドラマ「りんりんと」で、おふくろの霊の乗り移ったような鬼気迫る演技をしてくださった。一世を風靡したこの大女優は、誰もが想像することのできない孤独と貧困の中で死を迎えたのだ。
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田中絹代さんが亡くなったと聞いた。
その日は飛行機がもう間に合わなかった。
二十二日、羽田から鎌倉に直行した。
その晩鎌倉山の田中絹代さんの家で、小林さんと僕と、絹代さんがずっとボディさんと呼んでいたボディガードの隼新吉さんと三人朝まで酒を飲んで過ごした。
昔、松竹大船の習慣で、女のスターにはボディガードを兼ねた大部屋の男優がつけられたという。新吉さんはそういう形でずっと絹代さんのそばにいた人だった。
そこは大女優の家というには、あまりに寒々とした小さな部屋だった。旧型の、ダイヤル式の小さなテレビが一台。これもダイヤル式の、時代おくれの電話器があった。電話をかけるといつもモシモシと警戒した声で電話をとり、僕だと判ると急に明るくアラ! と返事のトーンが変わった。あの電話はこの部屋でとっていらしたんだな、と知れた。
スターと云われる人と電話で話す時、相手の今いる部屋の情況を僕はどうしても想像してしまう。鎌倉山の丘の上にあるという田中絹代という大女優の家は緑の芝生に囲まれた陽だまりの中にいつも静かにたたずんでいると、そういう姿で想像していた。実際の姿はおよそちがった。裸電球が只一つぶら下がる、あまりに寒々とした小さな部屋だった。
続々と続いていた献花の列が途絶えると、後はしんとした鎌倉山の夜になった。
僕ら三人はさしたる話題もなく、しんと眠っている大女優の死に顔を前に、時々線香を変えローソクの火を足して遺体の前で酒を重ねていた。
突然唐突に小林さんが、終戦時の関東軍の話をし始めた。
「武装解除されアメさんの捕虜になって日本に帰されるところだったんです。ところが沖縄の捕虜収容所の員数が足らんということが急に判りましてね。健康なものが百五十人選ばれていきなり沖縄に廻されちまったンです。
廻されたンだけどやることが殆どない。瓦礫の片づけを日中からやらされて後はごろごろ二千人の捕虜がカマボコ兵舎でぼんやり過ごしている。これじゃいかんと将校が云い出して、劇団を作って芝居でもやろう。そこで突然私に白羽の矢が立ちました。
応召前お前、映画会社にいたんだろう。
これから一つ劇団を作って、貴様毎月芝居を作れ。役者になりそうな奴を何人か集めて、脚本を書いて毎月一本上演しろ。やることがなくてブラブラしとるのはどう考えても衛生上悪い。急遽劇団を作ることになりました」
小林正樹監督の話は続く。「芝居って云ったって全員素人です。第一全員男ですから女をやるものが誰もいません。仕方ないから細身の奴を何とか説得して女形にしたンです。ところが野郎だけの世界ですから女の姿を久しぶりに見て変に全員生唾を飲みました」
「芝居は意外にも好評でした。何にも増して女形の姿が圧倒的に野郎の気を惹いたンです。噂を聞いて米軍キャンプから黒人兵が来るようになりました。あいつら妙に興奮しましてね。そのうち女形が拉致され始めました。戦勝国ですから有無を云わせません。朝まで拉致されてボロボロになって帰されてくるンです。その際タバコとかカンヅメとか土産をいっぱい持たされて来ました」
そのうち噂は白人兵に伝わり、黒人兵は追い出され、白人兵がどんどん来始めた。限られた数の女形たちは次々に拉致され犠牲になった。勿論土産はたっぷり持たされた。
「情況というものは恐いもんです。同性愛というその風潮がいつのまにか日本兵の間に拡がりました。アッという間です! 大体九十から九十五%位、そういうコトになっちゃったんじゃないかな。僕は芝居に忙しくて倖いそういうことにはなりませんでしたがね」
やがて帰国が果たせることになり、引揚船から内地が見えてくると、船上はえらいことになっていたそうだ。船内のあちこちで恋人同士が抱き合い、涙を浮かべてチュッチュチュッチュと。ところが船が岸壁につき、タラップの下に迎えの家族の姿が見えると、まるで夢から醒めたようにバーッとそれぞれ散って行ったそうだ。
「あれから何十年。みんなそれぞれ良い齢になって社会的地位も上がっています。社長になったり部長になったり。
戦友会というものが時々今も開かれるんです。偉くなったみんながそれなりに老けて貫禄をつけて最初は坐ってます。ところが酒が廻り座が乱れてくるといつのまにか昔のカップルがしんみり寄りそって語り合ってるンです。あの頃はお互い純粋だったね。ネ」
明け方、玄関のベルが鳴った。
出てみると年老いた往年の二枚目俳優が真剣な顔で扉の所にいた。
「昨夜弔問に参ったンですが、香典の袋に果たして金を入れたかどうか、不安で一晩中眠れなくって。すみませんが調べて戴けますか」
絹代さんの葬儀はその翌々日、築地本願寺で大々的に執り行われた。
新旧とりまぜた芸能界の大御所小御所が、朝早くから本願寺に集まり、周辺は激しいラッシュになった。
それにも増して目を引いたのは、境内いっぱいに溢れるように集まった無名のファンたちの群衆の数だった。何故か一様に背が低かった。
葬儀委員長は松竹の城戸四郎社長。
式と弔問は昼前まで続き、昼近くになってやっと収まったが、無名のファンの大群衆は境内を埋め尽くしたまま動かなかった。
あの人たちにも焼香をしてもらおう。
誰かが云い出し祭壇の前に急遽新しい焼香台を倍近い長さに増設し、ファンたちの群に入ってもらった。
巾広いその列は延々と続き一時間以上絶えることがなかった。
その列がようやく終わったのが一時すぎ。堂内は濛々たる煙に覆われた。その煙が少しずつ消えて行った時。
あれは何だ! と誰かが呟いた。
煙の消えて行く焼香台の上に、無数にキラキラと光るものがあった。百円玉十円玉五十円玉。
それは無名のファンたちが絹代さんの霊に勝手に捧げた“気持ち”の山だった。 斎場の表には香典受付所があった。だがそれはあくまで有名人たちのものであり、無名人たちにはそこに捧げる香典袋の用意もなかったし、資格もないと思ったにちがいない。そう考えた無名のファンの一人が自分の気持ちをコインに託した。それを見た人が我も我もとそれに倣(なら)ったのだ!
香典というよりそれは、賽銭だった!
亡くなった女優への賽銭だった!
胸の中がふいに熱くなった。
涙が鼻と目から溢れた。
絹代さん、やっと報われましたよ。一生を賭してあなたのなすった仕事が、こんなに素晴らしいファンたちの心で、やっと、ようやく報われましたよ。
僕らはみんなでそのコインを集め、絹代さんの墓に遺骨と共に納めた。
一九七七年、昭和五十二年の、それが三月の出来事だった。