前回、すこし書きましたが、私は神職(性別は女)です。
とはいえ、もともと神職の家系=社家に生まれたわけではなく、いわゆる転職組です。商社に勤めていた両親のもとに駐在先のインドで生まれ、日本に帰国後も神社とは全く関係のない仕事をしていました。そんな私が今では毎日神社に「出社」しているわけで、縁というのはつくづく不思議なものだと思います。
神社ってどんなところ?
今や私にとっては職場である神社ですが、一般の人々はどんな時に、神社に足を踏み入れるのでしょう?
そもそも、人が神社にお詣りする理由って、何でしょうか?
清々しいから。
空気がきれいだから。
静かだから。
雰囲気が好きだから。
年始の恒例行事として。
ご利益がありそうだから。
ですよね。
これらをまとめて一言で言うと、
「なんか気持ちいいから」
だと思います。「神道の教えに共感しているから」という人は、ほとんどいないでしょう。そもそも、神道には「教え」というものがないのですから。
ほかの宗教はどうでしょう。お寺は仏教。教会はキリスト教。モスクはイスラム教。みんな立派な「教え」があります。して良いこと / してはいけないことも、決まっています。
それなのに神社は「神道」で、祀られている神々には、良い神もいれば、悪い神もいて、悪かった神が良い神になることもあれば、その逆もあり、荒ぶる神もいれば、何にもしない神もいて……はっきり言って善悪の概念はありません。
ええええ? と思いますよね。いいんですかそれで。国が滅びませんか。と思いますよね。でも長いこと神仏習合体制でやってきた日本の場合、善悪については仏教に担当してもらってきたから、国は滅びていません。
しかし、「教え」はないにしても、「道」というからには、何かしら、一本すじの通ったものがあるのではないか。
ためしに、他に「道」がつくものを思い浮かべてみましょうか。
剣道、弓道、柔道、書道、茶道。
最近は、サウナの道という意味のサ道も流行っています。
何か共通点があるでしょうか。
どうやら、稽古を積んで体で得るもののことを「道」と呼んでいる気がしますよね。道を極めることによって、そこに何がしかの精神性が生まれるにせよ、基本は「体得」にある。
この概念から推測すれば、「神道」とは、理屈ではなく体で得る神の道、ということになります。
「神の道」ってなんでしょう。
人の道ではないから、「人の心」が1ミリも介在しない、本来の道ということです。「人の心」というのは、意味や理屈も含みますから、神の道は、人間の道理や理屈が通らない道、ということになります。
えっ……そうなの? 神道って、そんなに理不尽なものなの?
と驚くかもしれませんが、理不尽で不可解、かつ、奇抜で天衣無縫、それが神道であると私は感じています。
神職を養成する学校でも、研修先の神社でも、神事の作法については、細かく、しつこく教わりましたが、その時に、作法の意味や由緒は一切教えられませんでした。動作の意味がわからないので、たとえば神職の作法で、持っている扇(せん)(男性は笏(しゃく))を「少しく上げる」と言われても「少しく」がいったい何センチくらいでどれほどのスピードで行えば良いのかわからず、叱られてばかりでした。「違う!」と、何回言われたでしょうか。「どこがどう違うんじゃい!」と何回心の中で叫んだでしょうか。研修生の中には、大企業の管理職だった人もいましたが、そういう人ほど自分の頭が納得しないと動けないので、もっともっと叱られていました。
ところが、ある日急に、体全体にパキッと電気がつくように、わかった! と思ったのです。それは、おそらく最初に意味を教えられるのよりもずっと深いであろう、本質的な「わかった!」でした。そのとき私は、自分の手足が知性を持ったかのように感じ、「わかっちゃった、わかっちゃった」と小躍りしたくなったのを覚えています。それ以降、ほとんど叱られることはなくなりました。もしかしたらこの時、私は意味から脱出し、人間の理屈が通らない神の道を、「体で」歩き始め、長い旅に出たのかもしれません。
ああこの人、あちらの世界にいっちゃったのかな……
と思うかも知れませんが、あなたにも経験があるのではないでしょうか。
スポーツでも、音楽でも、あるいは難しい試験を受けている最中でも、集中しすぎてゾーンに入った、という経験が。
その時、頭で何か考えているでしょうか。意味を考えているでしょうか。
それより、感覚がいつもの何百倍もアップして、体が勝手に動いているのではありませんか。
私はこれを機に、それまで「感じる」ことは「考える」ことよりも浅いと思っていたのを改めました。「考える」のは頭ですが、「感じる」のは体じゅうのセンサーですから、全体的で、かつ、本質的なのです。
もっと五感を大事にしよう。神様とお近づきになるには五感を磨こう。
そう思ったのです。
意味から脱出して澄んだ湖に辿りついた
私にとって、神道の作法というのは、発祥が古い、シンプルすぎる、そして、言挙げ(説明)しないという三拍子が揃っていて、その意味を本当に知りたければ、ひたすらその作法を繰り返し行なって体で理解しなくてはなりませんでした。そして、体じゅうの電気がパキッとついたように、作法の意味を理解したとたん、待っていたのは「意味なんてない」という境地でした。あんなに知りたかった意味を、本質的に理解した瞬間に手放したのです。
なぞですよね。まるで、好きだ好きだと恋焦がれた相手が、やっと振り向いてくれた瞬間にどうでもよくなる恋心のようですが、恋心と似て非なるのは、「どうでもよくなった状態」が決して残念なことではなく、むしろ無茶苦茶いい感じである、というところです。澄んだ湖のような感じと言いましょうか、清々しくご機嫌な状態です。
それから神職として、神事の作法のほかに、古事記や日本書紀などの古典に親しむなかで、古代の日本はそもそも意味や因果のない世界であったらしいこと、自分もそういう世界に向いていることに気づきました。
神道の神々は、そのスケールも振る舞いも、支離滅裂と言いますか、前代未聞と言いますか、とにかくわけがわかりません。暴れまくったり、隠れたり、踊ったり、とにかくクセの強さと強烈なパワーでは人間なんて到底およびもしない、というより想像すらつかないのが神様で、そこから何か意味あることを読みといて得心(とくしん)しようなんていうほうが、どうかしているのかもしれません。神様にはそれぞれ覚えるのが大変なほど長い名前がついていますが、その本当の姿は私たちの周りで刻々と起きている自然現象そのものなのです。
毎日すこしずつ移り変わる季節のサインや、偶発的に起きる自然現象が、神様なんだなあ、と感じると、自らもそこに自然の一部として存在する幸せを、じわじわ、じわじわ感じるようになっていきました。そうしているうちに、梅の木にやってくる小鳥も、お供え物をこっそり食べにくるたぬきやイタチも、突然の雷も、嵐も、時々神社に来るわけのわからない人たちも、みんな神様に思え、毎日が楽しくて仕方ありません。見方によっては、呑気が過ぎる、おかしな人かもしれませんが、自分で自分の機嫌を取れるということでもあって、それは年齢に関係なく備えることのできる美徳なのではないかと、私は思っています。
さて、次からは、具体的にどんなことをして神様と遊ぶ五感を磨いていくか、月ごとにご紹介していきます。
神様と暮らす12カ月 運のいい人が四季折々にやっていること
古(いにしえ)より、「生活の知恵」は、「運気アップの方法」そのものでした。季節の花を愛でる、旬を美味しくいただく、しきたりを大事にする……など、五感をしっかり開いて、毎月を楽しく&雅(みやび)に迎えれば、いつの間にか好運体質に!
* * *
神主さん直伝。「一日でも幸せな日々を続ける」ための、12カ月のはなし。