人間関係の繊細な機微と儚い時間を描いた『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』は、渋谷でバーを30年近く続ける林伸次さんによる短編集です。思い通りにならない人生に寄りそうお話が詰まっています。冒頭の文章を抜粋してお届けします。
大人になって思い出した図書館の日々
両親は共働きだったので、夏休みになると幼い僕はいろんなところに預けられた。母方の祖母の家は海のすぐ近くにあり、まず一週間くらいそこで過ごした。
祖母と一緒に海水浴に行くこともあったけど、僕はそんなに活発な男の子ではなかったので、祖母の家の広い庭の蟻たちをずっと眺めて暑い夏の日を過ごした。
蟻を好きになったのは、図書館で『ファーブル昆虫記』を知ってはまったからだ。甘いお菓子を蟻の巣のすぐ近くにこっそり置いて、それに蟻たちが気づいて、やがて蟻の行列ができて、そのお菓子がどんどん崩されて、蟻の巣に運び込まれていくのをずっと見ていると、本当に楽しかった。
ファーブルもこうやって延々と蟻を観察して、何かを発見したんだと思うと、僕も世界で初めてのことを発見できそうな気がした。
もうひとりの父方の祖母にもよく預けられた。その祖母が小学生の僕の授業参観のときに母親代わりに観に来てくれたことがあった。
祖母は戦中、満州ですごく贅沢な暮らしをしていたらしく、田舎では誰も着てないような派手なドレスに大きな帽子を斜めにかぶってあらわれた。
僕は恥ずかしくて後ろを見ないようにしてたのだけど、先生が「ではわかる人」と言ったときに誰も手を挙げなくて、僕もずっと下を向いていると、「伸次、手を挙げて答えなさい」と後ろから祖母の声が飛んできた。
クラス中のみんなが笑って僕を見たから、ここで祖母に恥をかかせてはいけないと思い、僕は手を挙げた。先生が僕の名前を呼んで、立ち上がって何かを答えたところまでは覚えているのだけど、その後は真っ白で覚えていない。記憶ってそういうものだ。
その祖母は映画館で働いていたことがあり、僕は祖母に預けられるとずっと映画を観ることができたのだけど、何度も同じ映画を観るとさすがに退屈になるので、祖母がときたま近所のパチンコ屋に連れて行ってくれた。
僕の仕事はその辺に落ちているパチンコ玉を拾って、祖母に渡すことだった。祖母はすごく見栄っ張りだったので、パチンコ玉を拾うことは嫌ったのだけど、僕が何十個もパチンコ玉を手渡すと、祖母はニコニコと受け取ってくれた。僕がパチンコ玉を拾っていることが母にバレてからは、僕はその父方の祖母に預けられることはなくなった。
他にもいろんなところに預けられたのだけど、思い出深いのは街の中心地にある大きな県立図書館だ。
両親の親友がその図書館で働いていて、母が午前中にその友人に声をかけて、僕はその図書館で一日中過ごすことがよくあった。子供向けの偉人伝や冒険ものや歴史ものなんかはあっという間に読み尽くし、大人向けのミステリーやSFにも手を出した。
図書館は古い建物だったんだと思う。天井がとても高くて、使い込まれた壁により掛かって頰をつけると冷たくて気持ちよかった。
図書館の本からは、古い本特有の甘いバニラと木のような香りがした。僕はロンドンやパリの街を探偵たちと歩いたり、すぐそこまで来ている未来や暗い宇宙をさまよったりした。
本の中では人が戦ったり泣いたりしているのに、ページを閉じるとそこには僕の夏休みがあった。
大きい窓の外は太平洋からの日差しがまぶしくて、蟬が鳴く声がした。柱の時計を見ると、時間はまだお昼過ぎで、僕はまたゆっくりと本の中に戻った。
その図書館に一冊、大のお気に入りの本があった。小さな国の不思議な物語がたくさん入っていて、王様が出てくることもあれば、魔女や天使も登場した。その図書館で気に入った本があれば、同じ本を母親に書店で取り寄せて買ってもらっていたのだけど、その本は手に入らないということだった。
その後、その大きな図書館がある街からは引っ越してしまって、僕はひとりで自宅で過ごせるくらいに成長し、いつの間にか図書館には行かなくなった。その図書館も、改装して今はすっかりモダンな建物になっているらしい。
図書館の日々を思い出したのは、僕がバーテンダーをしながら本を書くようになってからだ。
原宿の裏の方にある図書館で、僕の一冊目の小説の資料を探していたときに、そういえば小さい頃に確か大のお気に入りのちょっと不思議な世界を描いた本があったことを思い出した。タイトルも覚えていないし、作者も日本人だったのか外国の翻訳小説だったのかも覚えていない。
でもひとつだけ覚えているのは、その本の中の世界がとても閉じていて小さな不思議な世界がたくさんあったということだ。僕はどういうわけだか、大きく広がる世界ではなく、小さくて閉じていてそこだけで完結している世界が好きだった。その好みはもしかしてあの本の影響なのかもしれない。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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