人間関係の繊細な機微と儚い時間を描いた『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』は、渋谷でバーを30年近く続ける林伸次さんによる短編集。思い通りにならない人生に寄りそう物語を抜粋してお届けします。
レモネードの話を夏が終わるまでに
一時期同じ店でバーテンダー修業を一緒にやっていた男が肝臓を壊し、バーテンダーをあきらめて実家の瀬戸内海に浮かぶ小さな島のレモン農家を継ぐことになった。彼はユーモアがあり、作る酒はなんでも美味しくて、小説が大好きだった。
バーの給料はそんなに良くなかったのだけど、仕事が終わった後で、バーテンダー同士が、少しだけ酒が入ったショットグラスを出しあって、ブラインドテイスティングで酒の銘柄を当てるという勉強のためなら、バーの棚の酒はいくら飲んでも「無料」という素晴らしいシステムがあった。
彼は安いブレンデッドスコッチの銘柄を当てるのが得意で、バランタインやカティサークやジョニーウォーカーのような銘柄を易々と当てた。僕たちは、お客さまとの会話のために、「フィッツジェラルドは息を綺麗にキープしたいという理由でジンを好んで飲んでいたらしい」とか、「ハンフリー・ボガートがドランブイが大好きで、バーの酒棚を見て、ドランブイが減っていると、彼が今この街にいるんだってわかったらしい」といった、最近知った使えそうな豆知識を披露しあいながら、アルマニャックからコニャック、マール、カルヴァドスと順番にブラインドテイスティングをしていると、いつの間にか外が明るくなり、それぞれ始発の電車に乗って帰った。
彼とはよく小説の話もした。彼も僕も短編小説という形式が大好きで、誰かと待ち合わせをするとき、十五分早めに到着して、待っている間に読み切れるくらいの長さが完璧な世界だと話し合った。
彼が瀬戸内海の島のレモン農家を継いで、僕が自分のバーを持ってから、「うちに傷物で出荷できないレモンが大量にあるんだけど引き取ってもらえないか」と相談があった。彼はタダでいいと言ったのだけど、レモネードにして出すからと伝えて、二人にとってちょうどいい値段で毎年大量の傷物のレモンが送られてくることになった。
それで僕は冬になると大量のレモンをカットし、砂糖と蜂蜜と一緒に透明の瓶に漬け込み、レモンシロップを作った。そのレモンシロップで作るレモネードやホットレモネードは、僕のバーの名物になった。
僕の一冊目の小説を、小説好きの彼に送ったら、「今度、レモネードの小説を書いてよ」とハガキが届いた。それで毎日バーでレモネードを作りながらレモネードの話を考えているのだけど、どうも面白い話が思いつかない。
いつものように、バーの仕事が終わった後に自宅のキッチンで原稿用紙を前に「うんうん」うなっていると、妻が起きてきてレモネードを作りながら僕にこう聞いた。
「レモネードの話は書けたの? 夏が終わるまでにすごく良いレモネードの話をあいつのために書かなきゃって言ってたじゃない」
「いくつかアイディアだけはあるんだけど、どれもイマヒトツなんだよね」
「例えば?」
「若い男性が海岸通りでレモネードスタンドを始めたんだけど、全然お客さんが来なくて、自分にはお店なんて向いてないのかな、なんて考えてたら、ちょっと不思議な雰囲気のおじさんがやって来て、レモネードの思い出の話をするっていうの」
「なるほど。そのおじさんの話で、そのレモネードスタンドの若い彼は何かに気づいて、以前とは違う人間になって、お客さんが増え出すって話だね。他には?」
「十五歳の頃から五十五年間ずっと、レモネード工場で働き続けてきた七十歳のおじいさんがいて、今日が退職の日なんだけど、若い同僚たちはデートとかいろいろ用事があって、先に帰っちゃうんだよね。それでがらんと静かな工場でひとりぼんやりしているとレモンの妖精が出てくるって話」
「うーん、レモンの妖精か。妖精がおじいさんの人生を癒してくれるわけだ。ありがちかな。まだある?」
「真夜中にキッチンの方に明かりがついてるから、どうしたんだろうと思って行ってみると、君が泣いてて。どうしたのって聞いても教えてくれなくて、それで二人でレモネードを作るって話」
「レモネードが何かの象徴ってわけだ」
「どれもイマヒトツでしょ」
「うん。なんだかどれもどこかで聞いたような話だね。オリジナリティにかけるかな。私だったら物語はやめて詩にするかな。こんな感じで」
夏が終わるまでに、誰も聞いたことのないようなレモネードの話を書こう
登場人物が最初から最後までずっとレモンを搾ってるんだ
それでその世界は夜も音楽も恋も、全部レモンの香りに包まれている
海岸通りも、疲れたおじいさんも、君の涙も全部レモンでできている
その世界にたっぷりと蜂蜜をかけて、誰も飲んだことのないような美味しいレモネードの話を作ろう
言葉と言葉の間からレモンの香りがわき立ってくるようなレモネードの話
そしてそのレモネードの話で、夏が終わるのなんて止めてしまうんだ
「なるほど、詩か。でも、彼のリクエストは小説なんだけど」
「だから、これが小説でしょ」と妻が笑った。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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