人間関係の繊細な機微と儚い時間を描いた『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』は、渋谷でバーを30年近く続ける林伸次さんによる短編集。思い通りにならない人生に寄りそう物語を抜粋してお届けします。
ロマン派の風になりたい
冬が始まったばかりの夜、午前二時。僕はバーの仕事を終えてカウンターの席に座り、カルヴァドス・ソーダを飲みながら、短編小説を書き始めた。
小説の中で主人公の天使が人間の女性と出会って恋をする。僕がこの二人にどんな出会いと恋のきっかけを与えようか悩んでいると、外で何かが「カサコソ」と音をたてるのが聞こえた。最近よく見かける猫がお腹をすかせてやってきたのだろうか。
内側から鍵を外し、おそるおそる扉を開けてみる。すると扉の隙間から小さい風がバーの中に飛び込んできた。
僕がびっくりしていると、小さい風は入ってくるなり突然、「ねえ、先生に見つからないように、しばらくここで隠れてていい?」と言った。
小さい風は逃げている。そしてその小さい風を追いかけているのは先生らしい。全く意味がわからない。こう聞いてみた。
「先生って? 何の先生がいったいどうして君のことを追いかけてるの?」
「先生ってもちろん風の先生だよ。人間の子供たちが人間の学校に行ってるように、僕たちだって風の学校に行ってるんだ。そして、学校で強い風の作り方とか、天気の見方とか、計算の仕方とか教えてもらうんだ。もちろん風の歴史や理科の実験もあるよ」
「なるほど。そりゃそうだね。もちろん風にも風の学校がある。風だって勉強しなきゃいい風にはなれない。いい大学にも入れないし、いいところにも就職できない」
「そう。わかってるじゃない」
「ところで質問に戻るけど、どうして風の先生が君のことを追いかけてるの?」
「そろそろ下界は冬だから、校庭で強い冬の木枯らしの風の作り方を教えてもらったとき、僕が全然強い風を作れないから先生が厳しくて。クラスの大きい風の男の子たちも、僕が好きな風の女の子も笑うし、嫌になって逃げ出したら、風の先生がすごい勢いで追いかけてきたんだ」
「今、そういう季節だし、できないとみんな笑うんだね。大変そうだ。風の世界にもいろいろあるんだ」
「僕のお母さんは若い頃はずっと春一番だったし、お父さんはその年一番の台風で雷様から勲章をもらってるんだ。だから『おまえもやればできるはずだ』って風の先生がうるさくって……」
「なるほど。期待されているんだ」
「そう。学校に入ったときからずっと先生たちに、おまえは本当はすごく実力があるはずなんだからって。でも僕は僕だし。僕はやりたいように生きてたいよ」
「やりたいようにか。僕も絶対にその方がいいと思うよ。じゃあ君は大きくなったらどんな風になりたいの?」
「僕が大きくなったらって? ちょっと考えてみるね。
うん。優しい風がいいな。
夏にさ、すごいスコールがあるじゃない。その雨が上がって、夕方の太陽が見えてきて、そんなときに海から吹いてくる涼しい風とかいいな。
あ、秋から冬にかけて都会のレンガ通りに吹くちょっと冷たい風とかもなってみたいな。
その風が吹くと、女の子が『寒い!』とか言って彼の腕に寄り添ったりするんだ。男の子は嬉しいんだけど恥ずかしくて、でも男の子のコートのポケットの中で二人は手を繫ぐ。その後、今年のクリスマスの予定の話なんかしてくれたら『風に生まれてきて良かった』って思うよ」
「すごくいいね」
「そう? そうかな?」
「うん。すごくいい。強い風なんかよりよっぽどカッコいいよ。君は『ロマン派の風』なんだね」
「何その『ロマン派の風』って?」
「今ちょっと思いついただけなんだけど」
「その言葉、いいな。ねえ、強い風だけが偉いのっておかしいよね。僕『ロマン派の風』になることに決めたよ。今日はありがとう。君に会えてよかったよ」
「こちらこそ。風の気持ちがわかって勉強になったよ。みんないろいろと事情があったり悩んだりしてるんだ」
「あ、事情で思い出しちゃった。僕、先生から逃げてるんだった。でも僕、今から先生と教室に戻ってみんなの前で宣言するよ。僕は強い風にはならない。僕はロマン派の風になる、ってね」
「頑張って。応援してるよ」
「うん。じゃあまたどこかで会おうね」
そう言うと小さい風は風になって僕の前から消えた。
後には、僕と書きかけの短編小説とカルヴァドス・ソーダが残った。僕は小説に戻って、この二人の恋のきっかけは優しいロマン派の風が吹いてきたことにしようと決めた。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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