人間関係の繊細な機微と儚い時間を描いた『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』は、渋谷でバーを30年近く続ける林伸次さんによる短編集。思い通りにならない人生に寄りそう物語を抜粋してお届けします。
一度しか会えない完璧な人間関係
僕がまだ若かった頃のこと。小説を書いてもうまくいかなくて、雨工場の仕事も人間関係がよくなくて、何もかもが嫌になると港の近くのバーに立ち寄った。いずれは僕はこのバーで働いて、独立してバーを開いてからまた小説を書くことになるんだけど、当時の僕はそんなことは知らない。
その夜はあきらかに飲み過ぎていた。八杯目のカルヴァドス・ソーダを注文すると、マスターは「何か嫌なことでもあったの?」と静かに笑った。
「誰かが僕の悪口を言っていて、僕も誰かのことが嫌いになって、もういいかげん人との付き合いはやめにしよう、ひとりで生きていこう、なんて考えたりするのに、やっぱり寂しくなって、誰かと話したくなって、こんな風にバーの扉を開けてしまうんだ」
「わかる気がするよ。完璧な人間関係、完璧な会話って世の中にはない。みんな不完全な言葉を交わし、相手を完全には理解できず、いつも不完全に誰かと関係をもっていくものなんだ」カルヴァドス・ソーダを出しながら、マスターは語った。
「すべての人間関係は不完全」と僕がつぶやく。
「さよならの国に行ってみるといいんじゃないかな?」
「さよならの国?」
「さよならの国では人と人は一回しか会えない。一度会ってしまったらそこでお別れでもう二度とその人には会うことはできない。それがもしかして完璧な人間関係かもしれない」
「その国にはどうやったら行けるんですか?」
「今夜、そこの港から船が出る」
僕はお会計をすませ、外に出た。月が出ていない暗い夜で、あたりは海からの濃い霧で霞んでいる。
街灯がぼんやりとともっている、いつもの街への道に背を向け、暗い海の方へ歩いた。港へ向かうデッキの道はしっとりと湿っている。すべらないように気をつけて歩いていると酔いもさめてきた。
船はすぐにわかった。
黒くて大きな鉄の塊の船から、細いタラップが出ていて、一人制服を着た係員らしき人間がタラップのこちら側で立っていた。彼は帽子を被っていて、目元がよく見えない。僕はその人に、「さよならの国へ行く船ですか?」と聞いた。
「そうです。ご搭乗でしたらお早めに。そろそろ船が出る時間です」。乗るべきかどうか悩む暇もなく、彼にせかされ船へのタラップを進んだ。
僕が乗り込んだのを待っていたかのように、タラップがゴリゴリと大きな音を出しながら引き上げられ、ゆっくりと扉が閉まった。
さっきの係員に支払いをすませると、狭い階段をあがって、船内の客室階に向かった。だだっ広い客室階は、固定された木のベンチがたくさん並び、ちらほらと人が座っているのが見えた。
全員がひとり旅なのだろう。みんな押し黙ったまま、目をつぶって眠っていたり、本を読んだりしている。
僕は誰も座っていないベンチに腰掛けた。使い込んだ木のあたたかさが心地よい。
船はゆっくりと進み、周りの乗客はあいかわらず押し黙ったままだ。
僕は立ち上がり、ぼんやりした頭を冷やすために海が見える通路に出てみた。海は真っ暗で波さえも見えなかったが、その海に雨が降り注いでいるのがわかった。誰もいない真っ暗な海に降り注ぐ冷たい雨のことをしばらく考えて、誰も見ていない誰かの人生の寂しさについて考えてみた。
暗い海に降り注ぐ冷たい雨。誰も気づいていない、誰かの静かな死。
「さよならの国は初めてですか?」と背後から声がした。
振り向いて「はい」と答えると、くたびれたスーツ姿の男性がいて「よいところですよ」と言った。
「よく行くんですか?」
「一年に一回くらいは行ってます」
「そんなに」
「ええ。日々、生きていると後悔ってありますよね。どうしてあのとき、あんな軽はずみなことを言ってしまったんだろうとか、どうしてあのとき、あんなことをしてしまったんだろうとか、そういう苦い気持ちばかりが心の底の方にたまっていきます」
「はい」
「それで、真夜中にベッドの中でそんなことをハッと思い出して、おもいっきりため息をつく」
「思い出し後悔ですね。僕もよくあります。真夜中に自分が嫌になってしまいます」
「そういうのって、すべての原因は自分が誰かと丁寧に接していなかったからなんです。あのとき、あの人との間で、私がもっと慎重に、もっと誠実に振る舞えば良かったんです。でもそれができなくて、いい加減な態度でその人と接してしまったから失敗して、その思い出し後悔が真夜中に私を襲ってくるんです」
「そういうのがたまってくると、さよならの国に行きたくなるんですか?」
「はい。さよならの国では一度しか会えないんです」
「さよならの国のことを教えてくれた人も、一度しか会えないんだって言ってました。一度しか会えないってよいものなんですか?」
「もう二度と会えないってことなんです」
「もう二度と会えない」
「この人とはもう二度と会えないって思いながら人と接すると、私たちはその時間をとても大切にするんです。後悔のないように、選び抜いた言葉で、完璧な関係をとろうとするんです」
「そんなものなんでしょうか」
「例えば誰かと死ぬ間際に会うとします。言葉をひとつひとつ選びますよね。もう二度と会えないんですから」
「そうか」
「ほら、さよならの国が見えてきましたよ」
さよならの国は、さっきまで僕がいた世界と、ほとんど同じに見えた。タラップを降りると、少し湿ったデッキも同じだ。
さっき話しかけてきた男性が、「右手の方に行くと、街がありますよ。じゃあここで、さよなら。もう二度と会えないけど」と言って、暗い左手の闇の方に歩いていった。
船に乗っていた他の乗客たちも降りてきて、みんなそれぞれ慣れた足取りで自分の道を歩いていく。
僕は右手に行くことにした。しばらく歩くとやっぱり僕がいた世界と特別変わったところのない街がある。酒場、本屋、映画館。目に付いた喫茶店に入ってみた。
奥に細長いウナギの寝床状態の喫茶店は、長いカウンターがひとつあるだけで、お客さんは誰もいなかった。カウンターの中の初老の男性が、「お好きな席にどうぞ」と言った。
入り口に一番近い席に座り、メニューを眺め、温かいカフェオレを注文した。すると、カウンターの中の男性が僕の顔を見て、僕の名前を呼んだ。その人は、小さいときにいなくなった父だった。
「父さん……」
父さんは「そうか。おまえも、この国に来るような歳になったか。元気そうでよかった」とうなずいた。
僕はあの時、父さんをみんなで探したこと、もう死んでしまったとあきらめてしまったこと、母さんが泣いていたことなんかを言おうと思ったのだけど、たぶんそんなことはわかっているだろうと気づき、カフェオレが出てくるのを待った。
カフェオレはすごく美味しかった。僕は父がこんなにコーヒーをいれるのが上手だなんて知らなかった。
「父さんはどうしてこんなところで喫茶店をやっているの?」
「父さんはすごく弱いんだ」
「どういう意味?」
「どこかで死のうと思ったけど死ねないし、ひとりぼっちで暮らしていくこともできない。誰かと会って話したいけど、その関係をずっと続けていくのはつらい。ここだと一度会ってしまえば、もう二度とその人と会わなくていい」
「二度と会わなくていい」
「もう二度と会えないっていいものだ。仲良くなって話しても、その人はもう二度とこのお店には来ない。一度きりなんだ」
「母さんには会いたくないの?」
「母さんは一度この店に来てくれた」
「本当に? いつのこと?」
「十五年前だ。父さんが消えてから、すぐにここを見つけだし、一人でコーヒーを飲みにきた」
「知らなかった」
「父さんのことは死んだことにするって寂しそうに微笑んだ。父さんもその方がいいって返したよ。父さんはすごく弱いって、母さんはわかってくれてるから」
「僕の話は出た?」
「出なかった。父さんが弱いのを知ってるから」
「弱い、弱い、そればっかりだ」
「そう。本当にくだらない父親で悪かった」
「うん。本当にそう思う」
「ところで、店には閉店時間がある」
「あ、この店の閉店時間は?」
「もうそろそろなんです。お客様」
僕はお会計をすませ、父に「さよなら。もう二度と会えないね」と告げて、外に出た。後ろを振り返ると、父の喫茶店は消えてなくなっていた。
もう二度と会えない、弱い父さん。
船で出会ったあの男性は、「もう二度と会えないとわかっていると、言葉をひとつひとつ大切に選んで、完璧な関係になる」と教えてくれた。
父さんは、「もう二度と会わなくていい」と言っていた。
その人とは一度しか会えないっていったいどういうことなんだろうとしばらく歩きながら考えた。
僕がいた世界は、会いたくなったらまた連絡をとれば会うことができた。ずっと関係を続けていくこともできた。
でも僕がいた世界も、本当はほとんどの場合が人は一度しか出会えない。
人と人は「これが最後の言葉だ」とは思わずに、その人とは二度と出会えずに、それっきりになってしまう。
さよならの国では、人と人は一度しか出会えない。一度会ってしまったら、もうそれでお別れで、二度と会うことはできない。
それで、さよならの国の人々は「出会った瞬間」をとても大切にした。言葉を選び、時間を大切にして、二人がどうして出会ったのか、今までお互いどんな人生を歩んできたのか、そしてこの出会いがとても素敵な思い出になるように、その瞬間を二人で温めた。
暗い夜道を歩いていると、雨が降ってきた。僕は婦人服店のショーウインドウの軒先で雨宿りをした。ショーウインドウの中では赤いドレスを着たマネキンが無表情で遠くを眺めていた。
その軒先に、黄色のワンピースを着た女性が雨宿りのために入ってきた。彼女の髪の毛は亜麻色のボブでアーモンド型の瞳をしていて、僕に少しだけ会釈をした。
僕も会釈をして顔を上げると彼女と目があった。僕と彼女が同時に「雨ですね」と口に出してしまって、僕たちはまた目をあわせ、笑った。
僕は彼女のことをとても好ましく感じていて、僕はそんなに自信家というわけではないのだけど、彼女の方も僕に好意を持ってくれていることがなんとなくわかった。
彼女は「旅行中ですか?」と会話を続けてくれた。
「わかりますか?」
「ええ」
「さよならの国っていいところだって聞いたんで」
僕は彼女の手に絵の具がついているのを見て、「絵を描いているんですか?」と質問した。
彼女は「はい。普段の仕事は本のちょっとした挿し絵が中心なんですけど、大きいサイズの油絵を今は描いていて」と言ってちょっと誇らしそうな表情を見せた。
「あなたはどんな仕事をしているんですか?」
「雨工場で働いています。今、僕たちの目の前に降っているような雨を作っているんです」
「じゃあこの雨も、あなたの工場で作ったのかもしれないんですね」
「そうかもしれないです」
「雪は作らないんですか?」
「雪は別のラインで作ってます。雪のラインは寒いから防寒着をつけなきゃいけなくて。もちろん霧や霰あられを作ってる人たちもいます」
「面白そうな仕事ですね」
「本当は小説を書きたいんです。夜の闇になってしまった王様の話とか考えたのですが、あまり才能がないみたいで」
「才能ですか。私もそのことはよく考えるけど、とにかく最後まで書くことが良いんじゃないかなって思います」
「油絵はどんな絵を描いているんですか?」
「今まで出会った人たちの姿を描いているんです。あの人はこんな服を着て、こんな表情で話してたなって思い出しながら一人一人を一枚のキャンバスに描いてます」
「一枚のキャンバスだと、絵が人でいっぱいになってますよね」
「はい。五分しか話さなかったけど、いい人だったなとか、あの人とは確か一緒に海を見ながらサンドイッチを食べたんだっけとか思い出しながら描いてます。キャンバスに私の思い出の人たちがあふれてますよ」
「そうですか」
「もう会えなくても思い出として描きとめておきたいなって思って」
「僕もそのキャンバスに描いてもらえるんでしょうか?」
「もちろんです。この雨も描きますよ」
「僕のことが誰かの絵の中にずっと残っているなんて嬉しいです」
「でも、あなたがいつか書く小説の中にもいろんな思い出を入れられますよね」
「そうだ。僕も君のことを小説の中に書きます。そうか、書き残したいことがあれば小説は進んでいくんですね」
「もう二度と会えなくても、私はあなたの小説の中に残って、あなたは私の絵の中に残る」
彼女は少し微笑むと、自分の腕時計を見て、「そろそろ、元の世界へ戻る船が出る時間が近づいてきましたね」と告げた。その彼女の言葉が聞こえたように、ちょうど雨が上がった。
二人はショーウインドウの軒先にいる理由がなくなった。
二人にはお別れが近づいていた。
僕は彼女に、僕の彼女への好意みたいなものを伝えてみようと思ったのだけど、もう二度と会えないから言うのはやめにした。
彼女も何か言おうとしたようだけど、「ううん。なんでもない」と首をふった。
二人はこの出会っている瞬間をあたためた。
そして二人にはお別れが近づいていた。
さよならの国では、人と人は一度しか出会えない。一度出会ってしまったら、もうそれでお別れで、二度と出会うことはできない。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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