人間関係の繊細な機微と儚い時間を描いた『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』は、渋谷でバーを30年近く続ける林伸次さんによる短編集。思い通りにならない人生に寄りそう物語を抜粋してお届けします。
一生に一度しか恋ができないとしたら
あなたは恋をしたことはあるでしょうか?
たまに会うあの人のことが気になってしまう。あの人に恋人はいるのだろうか、どんな生活をしているのだろうか、誰かとデートはしているのだろうか、あの人のことが気になる。
あの人を偶然見かける。あの人は誰かと一緒に楽しそうに笑っている。どうしてあの人は自分に向かって笑ってくれないんだろう。どうすればあの人は自分に笑いかけてくれるんだろう。
そして、「しまった、これは恋だ」、と気がつく。
恋をするって、苦しいものです。
さっきまでは、いつもと同じ普通の日々だったのに。さっきまでは、今日は何を食べようかなとか、こんど給料が入ったら何を買おうかなとかって考える日々だったのに、恋をしてしまうとずっと、あの人が頭の中から消えません。
あの人は今どうしているんだろう。あの人は今どこにいるんだろう。あの人は今誰といるんだろう。
あの人に会いたい。少しだけ話して少しだけ笑いあいたい。あの人に会いたい。そんな風にあなたは誰かに恋をしたことはありますか?
その国では「恋は一生に一回しかできない」という決まりになっていました。
「そんな決まりがある国があるの?」とあなたは疑問に思うでしょう。しかし、どの国にも恋の決まりがいろいろとあるのは、あなたもご存じのはずです。
結婚してしまったら、相手の人以外と恋をしてはいけない国。
同時にたくさんの恋をしてはいけない国。
同じ性別の人に恋をしてはいけない国。
恋をした相手とはまず結婚できない国。
恋の決まりは国によっていろいろと違うものです。
そして、その国では「恋は一生に一回しかできない」という決まりになっていました。
あなたにとって、恋とはどんなものでしょうか。
すぐ簡単に恋をしてしまう人もいれば、めったに恋をしない人もいます。
恋が楽しくて楽しくてゲームのように最初から最後まで味わう人もいれば、恋があまりにも苦しくてずっと抱え込んでしまう人もいるでしょう。
でも、その国では、恋が一回しかできないんです。
そしてあなたもご存じのように、誰かの一回だけの恋が両思いになることなんてめったにありません。もし誰かが、世界中の恋を何億と集めてみたら、ほとんどが片思いのはずでしょう。
何億もの恋の中の、ほとんどが片思い。
その国でもやはり、ほとんどの人たちが片思いの恋をしてしまいました。子供が小さい頃から、お父さんやお母さんが、そして学校でも、こう教えました。
「私たちの国では恋は一回しかできないから。そしてその一回の恋のほとんどが片思いに終わってしまうから、ちゃんと考えて、本当にこの相手でいいのかどうか見極めて、恋をしなさい。いいかい。簡単に恋をしてはいけないよ」
もしあなたがそんな風に大人に注意されたらどうでしょうか。恋をしてしまいそうなときに、その恋は止められますか?
そうなんです。その国の子供たちは、思春期になって周りの異性が気になり始めるような大人の入り口に立ってしまうと、ついついうっかりと気になるたった一人の誰かのことを思ってしまい、結局恋をしてしまうんです。
そしてその初めての恋のほとんどが片思いなので、その恋は何も始まらないまま終わってしまいました。
あんなにお父さんやお母さんや先生に言われていたのに、結局は一生のうちにたった一回しかできない恋を、片思いのままで終わらせてしまうのです。
しかし、その国の人たちは、恋は一生のうちにたった一回だったので、それが片思いの恋であっても、自分の恋をいとおしく思い、大切にしました。
その国のほとんどの人たちにとって「恋とは片思いのことであり、その片思いを死ぬまでずっと大切にすること」だったのです。
それでもその国の人たちは人口が減り、国が滅んでしまうのを避けるため、結婚を奨励しました。
違う人に恋している片思い同士の男女を無理矢理結婚させたというわけです。
国民のほとんどが両思いの結婚ではなく、他に片思いの恋をしているのに結婚という状態だったので、みんなは「結婚とは、家庭とは、そういうものだ」と、納得していました。
結婚相手同士が「他に片思いの相手がいる」のが普通だったのです。
片思い同士で結婚した夫婦は「あなたはどんな人に恋をしているの?」と新婚旅行や新しい住まいの食卓で話しあいました。
そして、片思いの相手の写真を見せて、「僕が恋しているのはこんな女性なんだ」「私が恋している男性はこんなに素敵なの」と、お互いの片思いの相手を自慢しあいました。
そして二人は「片思いってつらいね」「僕らの子供にはこんなつらい恋はさせたくないね」と言って、冷たいベッドの上でそっと抱きあいました。
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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