ふたりの関係は、気づいたら遠く離れてしまっていることがあります。とりわけ恋愛において、近くにいるつもりなのは錯覚だったのだと。渋谷で30年近くバーを続ける林伸次さんによる短編集『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』より、不思議さと切なさがいりまじるお話をどうぞ。
遠くまで行ったら戻れない
彼女が紙コップのようなものを差し出した。
彼が不思議そうな表情をすると、「これ、耳に当ててみて」と言った。
「こう?」と耳に当てると、「そう」と彼女は微笑んだ。
「ほら、これ」と彼女は同じような紙コップを見せて遠くに走っていった。
そうか、これは糸電話なんだと彼は気づいた。
彼女はもう見えない。
かなり遠くまで行ったようだ。
彼は耳に紙コップを当てたまま彼女の一言目を待っている。
何も聞こえない。
いや、正確に言うと、彼女が走っている靴の音と彼女の「ハッハッ」という息が聞こえてくる。
彼はちょっと不安になってくるけど、しばらく耳に当てたまま待ってみる。
彼女が突然立ち止まる音が聞こえる。
そして紙コップから「ねえ、魔法って信じる?」という声が聞こえる。
彼は紙コップを口に当てて答える。
「いや、そういうのはあんまり……」
「そう答えるってわかってた。
いつもあなたはそうだもん。
でも、不思議じゃない。
糸がないのに私たち話ができているの」
「ほんとだ。あ、これ新種の携帯電話?」
「なるほど、そんなリアクションかあ。残念」
「残念?」
「私、あなたに恋の魔法をかけたの。
今日がその魔法が消える日なの。
私たち、魔法なんてなくてもうまくいくと思ってたんだけどなあ」
「え、どういうこと?」
「ごめん、もう遠くまで来ちゃった」
* * *
続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。
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2023年10月4日発売『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』について
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