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世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。

2024.09.11 公開 ポスト

#10 「あれは去年死んだ息子?」湖の底の公園で僕を呼ぶ男の子林伸次

渋谷で30年近くバーを続ける林伸次さんによる短編集『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』で描こうとしたのは小さく閉じた不思議な世界。今回のお話をどう受け取るか? ひとりひとりでまったく違うかもしれません。

湖の底に戻ってこなければ

僕は二人乗りの小さいボートに一人で座っている。ベージュのチノパンに赤と緑のチェックのネルシャツ、黒に白いラインのアディダスのシューズ。鞄は持っていない。どうやら財布だけがチノパンの後ろのポケットに入っているようだ。

ボートは新しい。誰も使った形跡がないような新品で、足元の船底には僕の靴の汚れもついていない。僕はこのボートに乗るためにどこかから歩いてきたはずなのに、アディダスの裏側は汚れていない。

ボートは二人乗りなので、僕の向かい側に空いた席がある。そしてその空席が、誰もいない空白が、僕の心に少しだけひっかかる。おそらく誰かが座っているべきだけど、今は座っていないのだろうと理解した。

空は雲ひとつない青空が広がっている。気温は寒くもなく暑くもない。今が春なのか秋なのか、しばらく考えてみて、秋なのではないかと思った。空気が少し乾燥している気がするし、空の広がり方もたぶん秋だ。

僕は今まで何度も春の空と秋の空を見てきたはずなのに、これが秋の空だと確信はできない。春の空と秋の空を並べて比べたことがないからだろう。

春の空と秋の空をどうやって並べて比べられるかをしばらく考えてみたけど、思いつかなかった。

世界は静かだ。鳥の声は全く聞こえない。誰かがこの世界の音の消去ボタンを押したみたいだ。

穏やかな風が吹いてきた。少しだけ水面が揺れる。水がボートに当たり「パチャリ」と音がした。大丈夫、この世界の音は消去されていない。

あたりを見回すと三六〇度、すべてに陸地があるのでここは湖なんだと気づく。陸地はどれもが絵に描いたような緑の森だ。どこにもボートをとめるような場所はない。もちろんビルや住居、店舗のような建築物もない。

(写真:Antonio López from Pixabay)

僕はボートの下を見る。水だ。穏やかな風で揺れている湖の水だ。

水は、悲しいほどに透き通っている。

僕は透き通った水のもっともっと底の方をのぞき込む。

湖の底には小さな街がそっくり沈められている。住宅街のようだ。車が一台通れる道があり、一戸建ての住宅や小さいマンションが並んでいる。交差点にはコンビニや美容院も見える。

驚いたことに街は少しも傷んでいない。

まるで今でも息をしているみたいだ。

目を凝らすと本当についさっきまで人が生活していたことがわかり始める。

交差点の赤信号で止まった宅配便の軽トラック。交差点を左に曲がろうとしている幼稚園の送迎バス。

マンションの三階の部屋のベランダに干したままの洗濯物。青いジーンズとコンバースのシューズがある。若い人が住んでいるのだろう。

公園の方に視線をうつす。小さい公園だ。大きい木が何本か公園を囲っていて、トイレがあり、その横に水道と砂場がある。ジャングルジムがあって、ブランコがある。揺れるブランコ。誰かがさっきまでこのブランコで遊んでいたんだ。

ジャングルジムで何かが動いている。湖の底の小さな公園のジャングルジムのてっぺんで小さい誰かがこちらに向かって手を振っているようだ。僕は目を凝らしてその小さい誰かをよく見てみる。

去年、病気で死んだ僕の息子だ。

湖の底のジャングルジムのてっぺんで、僕に向かって、息子がすごく楽しそうにこちらに手を振っている。

僕は息子が元気にしているのを見てほっとする。最後は病院のベッドで青白い顔をして、口に酸素マスクと腕に点滴をつけられて、とても苦しそうにしていたのに、今は楽しそうだ。

何か言わなきゃと思い、息子に向かって、「そっちは楽しいか?」と大声で訊ねてみる。

「うん! 楽しいよ!」と元気な答えが返ってくる。

僕はすぐさまボートから湖に飛び込んで、息子のところまで泳いでいきたくなったが、思いとどまる。

僕のためらいを息子は察したのか、不安そうな表情で「どうしたの? こっちに来ないの?」と大声で僕に向かって聞く。

「ちょっとおうちに帰って、ママも連れてくるよ」と大きな声で息子に答える。

息子が、頭の上で大きな輪っかを作って、「OK! じゃあ、おうちのゲームやおもちゃも持ってきて。こっちは何にもなくて退屈で」と笑顔を見せる。

「わかった。ゲームもおもちゃも捨ててないから全部残ってるぞ。ママも喜ぶと思う。ちょっとだけ、ちょっとだけ待っててね。すぐにまたママとここに戻ってくるから」と湖の底の息子に向かって大声で叫ぶ。

このボートの空席は妻の席だったんだと気がついた。僕だけ湖に飛び込んで、息子に会いに行くと妻が悲しむだろう。

僕は息子に大きく手を振ってボートを漕ぎ始める。周りはすべてが緑の森で、どこにボートをとめて、どこから家に帰れるのかわからないけど、妻を連れてこなきゃと思った。

そして、息子が好きだったゲームとおもちゃもたくさん持ってこなきゃと思った。妻が「ゲームとおもちゃを捨てるのはまだやめて」と言って、僕を止めてくれて良かった。早く妻に会わなきゃ。そして息子が湖の底で元気にしていることを伝えなきゃ。

後ろを振り返って、ジャングルジムを見ると、息子が大きく手を振りながら、笑っているのが見えた。

*   *   *

続きは、『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』をご覧ください。

関連書籍

林伸次『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』

大丈夫。孤独で寂しいのは、みんな同じだよ。 noteで大人気!渋谷のバール・ボッサ店主が描く、 思い通りにならない人生を救う極上のショートストーリー集。 片想いしか知らない。一度しか会えなかった。気持ちはいつも届かない――。 誰もが自分だけの世界で一度きりの人生を生きている……15の小さな物語。 まるでバーに入ったような小説。

林伸次『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』

誰かを強く思った気持ちは、あの時たしかに存在したのに、いつか消えてしまう――。燃え上がった関係が次第に冷め、恋の秋がやってきたと嘆く女性。一年間だけと決めた不倫の恋。女優の卵を好きになった高校時代の届かない恋。学生時代はモテた女性の後悔。何も始まらないまま終わった恋。バーカウンターで語られる、切なさ溢れる恋物語。

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世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。

2023年10月4日発売『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』について

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林伸次

1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDをオープン。選曲CD、CDライナー執筆多数。著書に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』『バーのマスターは、「おかわり」をすすめない』(ともにDU BOOKS)、『ワイングラスの向こう側』(KADOKAWA)、『大人の条件』『結局、人の悩みは人間関係』(ともに産業編集センター)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)などがある。

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