
1945年の終戦から1952年までの約7年間、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれ、大きな変革を経験しました。この「占領期」の日本を克明に描いた幻冬舎新書『占領期日本 三つの闇 検閲・公職追放・疑獄』より、内容を抜粋してお届けします。
GHQの標的となった内務省
昭和天皇とマッカーサーの初めての会見が行われた1週間後、二人が並んだ写真に日本人の多くが大きなショックを受けていた頃、マッカーサー司令部が突然の発表を行う。終戦からまだ40日しかたっていない同10月4日、GHQは日本政府に、治安維持法や特別高等警察(特高)などの廃止、内務大臣や警保局長、警視総監、各道府県警察部長(本部長)、特高全職員らの罷免を命じた。

これにより、内相や内務省の警察の首脳、特高職員ら約4000人が一斉に辞めさせられた。第1章でも触れたが、天皇とマッカーサーの写真を掲載しようとした新聞を内務省が発禁処分とし、それをGHQが怒りを込めて覆したことも関係していた。当時、最有力の官庁だった内務省はGHQの標的とされ、後日、解体されていく。
特高パージはまだ公職追放の前触れに過ぎないが、この指令で終戦直後に始まったばかりの東久邇内閣が、在職わずか54日で崩壊した。終戦に導いた鈴木貫太郎内閣の後継として、不穏な動きを見せる軍部、特に陸軍を抑え、外国軍の進駐開始という難局を乗り越えるため、首相に選ばれたのが陸軍大将にして皇族(当時)の東久邇宮稔彦王だった。「全国民が総懺悔[悔い改めること]するのが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を東久邇は訴えていた。しかし、首相はGHQの突然の指令に納得出来ず、抵抗の意地を示して総辞職したのである。
後に東久邇はこう語っている。
「マッカーサーは『大臣をかえたり、官僚をかえたりすることは私[マッカーサー]が直接は命令を出しません。必ずあなた[東久邇首相]を通してやります』と言っていた。ところがマッカーサーは内務大臣や官吏らの罷免を指示した。『これは約束が違う。こんなことでは信用できないから、総理をやめます』と言ったんです」(『昭和経済史への証言 下』)
「宮様内閣」の次は、外務省出身で英語力がある73歳の幣原喜重郎を首班とした内閣となる。GHQはさらに同30日、教職パージを命じ、これで軍国主義的な教職員約7000人が追放された。
当時の日本にはGHQの動きに賛同する者は少なく、占領軍に非協力的だった。これに不満だったGHQは、同11月に日本軍の武装解除がほぼ完了すると、近付く総選挙の前に「好ましからざる人たち」の一掃を計画する。これで、日本中が震え上がるのは、年が明けてのことである。
GHQが考案した追放者範囲を広げる規定
46年1月1日、久しぶりに戦火を恐れることのない正月を迎えた。昭和天皇は年頭にあたり、「新日本建設に関する詔書」を発表し、現人神であることを自ら否定した(人間宣言)。そして同1月4日、ついにGHQから日本政府に「公職追放指令」が通達された。
追放の該当者は、A項が戦争犯罪人、B項が陸海軍軍人、C項は超国家主義的・暴力主義的団体の有力者、D項は大政翼賛会指導者、E項は海外金融・開発機関の役員、F項が占領地の行政長官、G項はその他の軍国主義者や極端な国家主義者。追放の対象となる在職期間は、日中戦争の発端とされる盧溝橋事件の起こった1937年7月から、終戦の45年8月までとされた。

該当者の対象項目で問題なのがG項で、「軍国主義政権反対者を攻撃した者。言論、著作、行動により、好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者たることを明らかにした一切の者」などが含まれる。
「G項は追放に該当するか、白か黒かを判定する時に、いかようにも判断出来る項目で、追放者の範囲を広げるためにGHQが考案したものだ。G項が魚のすくい網のような効果を発揮して、後に首相になる鳩山一郎や石橋湛山ら大物政治家らも、これで次々と追放されることになった」と増田氏(※)は説明する。
追放者の烙印を押されると、公職から追放され、退職金も恩給ももらえない。政治家であれば政治活動が禁止され、経済人なら会社にも入れず、言論人は言論活動が出来なくなった。
日本のパージ政策は、先に降伏したドイツでの非ナチス化政策をモデルとした。ドイツでは、ナチ党員ら追放者に対して重労働、財産の没収、市民権の剥奪など刑罰的な制裁を科した。日本ではそこまで厳しくなかったとはいえ、周囲から冷たい視線を浴びて、いつまで追放されるか分からず、「塀のない監獄」に長く入っているようなものだった。さらに、ドイツにはなかった独特のG項があるので、すねに傷を持つ日本人はおびえた。
※編集部注:公職追放研究の第一人者で、多くのGHQ元担当官とも米国で面談した政治学者の増田弘・立正大学名誉教授(2022年から平和祈念展示資料館館長)
「人間宣言」直後の昭和天皇の苦悩
人間宣言したばかりの昭和天皇も、GHQ指令に苦悩していた。指令の内容を知った時の天皇の様子を、藤田尚徳侍従長(元海軍大将)が著書の『侍従長の回想』に書き残している。
「「ずいぶんと厳しい残酷なものだね。この通りに実行したら、今まで国のために忠実に働いてきた官吏その他も、生活できなくなるのではないか。藤田[侍従長]に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか」真剣なおたずねであった。
「マッカーサー元帥がどう考えているか、幣原総理大臣に聞かせてみようか」陛下は思いつめた表情をなさった。
[侍従長は緊張の汗をかきながらこう答えた]「それはなさらぬ方がよろしいと存じます。もしも幣原首相がマッカーサー元帥にご退位のことを聞けば、元帥の返事はイエスかノーか二つしかございません。ご退位の可能性が二分の一はございます。元帥が意見を明らかにすれば、占領下においては引き込みがつきませぬ」
陛下はうなずかれた。「そうか、その考えもあるな。では幣原に聞かせるのはよそう」
国のためになるならば退位も辞さない。それは退位して、陛下の一身が楽になるというためではない。国民のため、日本再建に役立つのならば、戦争の責任をとって退位する覚悟、これが陛下のご心境であった」
公職追放指令が天皇の退位問題と絡んで、昭和史が大きく変わったかもしれない瞬間だった。
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