今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民~三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。
郭山疎開隊のうち、38度線を越えて日本に帰国した「南下班」は約半数。残りの半数は南下班の脱出行より前に、「北上班」として旧満洲に戻っています。日本への帰還に期待が持てないなかで、旧新京(長春)にいる知人や親族と連絡がついた人たちは、まだ旧満洲へ戻ったほうがよいと考えたのです(約半数が戻ったところで、長春が中国国内の内戦によって情勢不安定になったことで、北上は中止になります。そこで残った人々が、より危険の大きい南下を決意したのでした)。
井上家も、終戦直前に召集された主(あるじ)・寅吉が、ソ連軍の捕虜になるのをまぬがれて、長春に戻っていました。1946年2月、寅吉からの手紙が喜代に届けられ、喜代と4人の子どもは、北上して旧満洲に戻る列車に乗り込むことができたのでした。
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翌二十三日の第二陣、一七三人の出発は早暁だった。冷え込んだ夜明け前にもかかわらず、見回しても防寒具を身に付けた人は少なく、ほとんどが着のみ着のままの普段着姿だった。
長女の泰子と長男の昌平がすっかりやせ細った末弟の洋一を代わるがわるおぶって歩いた。喜代は洋子の手を引いて後に続いた。行友春江と満智子もしたがっていた。線路に沿った街道まで下ると、仮宿舎の家並みが遠望された。稜漢山の山頂には航空灯台が朝日を背にして立っている。その下の斜面には、郭山の地で倒れた母子たちの無数の土まんじゅうが並んでいるはずだった。
川と街道に沿った行く手には、この町に着いてから三カ月ほど過ごした教会堂と旧郭山東国民学校の校舎が並んでいた。敗戦の日の青酸カリ事件で井戸の使用が禁止されてから、この川べりに何度、水を汲みに降りてきたことだろうか。
郭山駅に着いた一行は引率の鉱山司官吏、大里正春らの点呼を受け、午前七時半の列車に乗り込んで出発した。日が高く昇るにつれて山野は次第に陰翳(いんえい)を失い、車窓にはまだ浅い春の情景が広がった。半年以上も足止めされ、厳しい越冬を余儀なくされた郭山の町は、最初のトンネルに入ると列車の背後に消えていった。
気がつけば、あっけないほどの短い時間だった。こんなにわずかな距離を移動するために、どうしてあれほど苦しい日々を重ねて待ち続けねばならなかったのか、とても理解できないほどだった。
その日の昼ごろ、列車は新義州駅を出て、旧満洲との国境を分ける鴨緑江の無骨な大鉄橋にさしかかった。昌平は車窓から見下ろす大河の流れに目を奪われていた。進行方向右手の上流から橋の下へ、波立つ激流が白い渦を巻きながら滔々(とうとう)と流れ込んでいる。遠く中朝国境の山々を源とする青黒い雪解け水のなかには、氷塊がいくつも浮かんでいた。