長春で再会を果たした井上家。かつて寅吉の下で働いていた中国人部下の世話で仕事を始め、新たな住まいも見つけます。しかし、郭山での厳しい生活は、家族のなかで最も幼い洋一の体を、深く蝕んでいました。
井上家の暮らしはこうして一応安定したが、末子洋一の容態は好転しなかった。日本人医師による診療も含めてできるかぎりの処置を施したものの、おもわしい効果は表れなかった。奉天で生まれた「満洲っ子」の洋一は、衰弱して床から起き上がれなくなると、幼いころから聞かされてきた軍歌「戦友」をしきりにせがんだ。寅吉はそのたび、請われるままに声を湿らせながら歌い聞かせた。
此処は御国を何百里/離れて遠き満洲の
赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
思へば悲し昨日まで/真つ先駆けて突進し
敵を散々懲らしたる/勇士は此処に眠れるか
満洲を舞台にした真下飛泉作詞、三善和気作曲の著名な軍歌は、冒頭にも歌われた「赤い夕陽」を浴びながら、戦友の塚穴を掘るシーンへと続く。
肩を抱いては口癖に/どうせ命はないものよ
死んだら骨を頼むぞと/言ひ交はしたる二人仲
思ひもよらず我一人/不思議に命永らへて
赤い夕陽の満洲に/友の塚穴掘らうとは
やせ衰えていても意識は混濁していなかった。旧新京に戻って一カ月にもならない三月二十九日、洋一は「僕を穴のなかに埋めないでね」と言い残して息を引き取った。その姿は、栄養失調からくる小児結核で倒れていった郭山の子どもたちの最期と変わらなかった。
洋一は郭山の仮宿舎から稜漢山中に入った共同墓地の様子を見たことがあったのだろうか。あるいは、その寒々とした情景を語り合う人々の口調を軍歌の歌詞に重ね合わせて、子どもなりに思い描いたことだったのかもしれない。凍てついた斜面に並ぶ土まんじゅうの群れが、何よりもつらく寂しいものとして脳裏に刻まれていたのだろう。
臨終の言葉にあったとおり、暗く冷たい土のなかに埋めて異国に残していくことは絶対にできない。通夜を終えると、寅吉と喜代は自分たちの手でなきがらを荼毘(だび)に付すことにした。泰子や昌平らきょうだいも両親にしたがった。
手分けして冬枯れの原っぱで枯れ草を刈り集め、洋一のなきがらを横たえると、枯れ草を積み上げ、その上にわずかの薪を並べて火をつけた。枯れ草は勢いよく燃えさかり、やせこけた洋一のなきがらは、やがて小さな白い骨になってしまった。
家族全員で遺骨を一つずつ拾い上げ、用意してきた白木の小箱に納めると、春先の冷たい風の吹くなかを給水塔が見える家の方角へと急いだ。
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本では、井上家のほか、多くの家族の物語が貴重な証言とともに綴られています。ぜひお読みいただけると幸いです。
*最終回「『日本人難民』という戦後史の闇」は6月10日(水)に掲載予定です。