【再掲】注目の長篇ミステリー『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)。ミステリー界期待の星として、大注目の柚月さんが今回挑んだのは、女性たちの抱える闇、欲望をリアルに描いた犯罪小説。そこで作品冒頭の50ページまでを試し読み連載(全六回)にて掲載!! 日常生活における人間の心の脆さを覗いてみて下さい。(著者の柚月裕子さんが気になった方はこちら→ http://www.gentosha.jp/articles/-/3762 ほんのひきだし )
連載第六回(最終回)となる今回は、文絵はディナーショーに参加し、同級生だった加奈子と遭遇。しかし、その顔に見覚えはなかった……。
男性タレントが退くと、会場の照明がついた。眩しさに思わず目を細める。夢から覚めたような気分だ。しばしのあいだ、放心したように会場を眺めていた。文絵の胸を埋めているものは、解離のときの現実離れした浮遊感ではなく、独身のときに味わった、心が浮き立つような昂揚感と、家事と育児だけの重苦しい日常から離れた解放感だった。
——来てよかった。
文絵は満足しながら、会場を出た。
ホテルを出る前に、洗面所に寄った。用を済ませてロビーに出る。二百名近くいた客は、すでに数えるほどしか残っていなかった。連れ立って別な場所へ流れたか、そのまま帰路に就いたのだろう。
文絵は夫に、いまから帰る、と携帯から電話を一本入れたあと、ホテルの出口へ向かった。
ホテルのエントランスに差し掛かったとき、背後から久しく聞いていない苗字が聞こえた。
「牟田さん?」
ぎくりとして、思わず立ち止まった。だが、振り返らずに歩き出す。
牟田は文絵の旧姓だった。結婚してから、牟田の名前で連絡をとっている者はいない。おそらく人違いだ。
だが、声は執拗に文絵を呼び止める。
「牟田さん。ねえ、牟田さんでしょう」
文絵はそれでも無視して、足早に出口へ向かう。
出口の自動ドアの前まで来たとき、右肩を掴まれた。文絵は驚いて振り返った。
文絵を引き止めたのは、女性だった。長い髪をきれいに巻き、目元がすっぽりと隠れるぐらい大きなサングラスをかけている。
女性は文絵が振り返ると、両手を胸の前で合わせて嬉しそうに笑った。
「やっぱり牟田さんだ。お久しぶり」
色の濃いサングラスをかけているため、顔立ちはよくわからない。長身の体躯や顔の輪郭、口元、声などから、記憶を辿る。しかし、いくら考えても女性に心当たりはなかった。
戸惑っている様子から、文絵が自分をわからないと察したのだろう。女性は名前を口にした。
「私よ、私。岐阜の中学校で同じクラスだった杉浦加奈子よ」
「杉浦……さん?」
名前を聞いても、思い出せない。加奈子は少し低めの落ち着いた声で、文絵に声をかけた経緯を説明した。
「牟田さん、さっきのディナーショーにいたでしょう。私も観ていたんだけど、ショーが終わってホールから出ようとしたとき、偶然、牟田さんを見かけたの。最初は人違いかと思ったけど、横顔を何度も確認して、間違いないと思って声をかけたのよ。やっぱり当たりだった」
加奈子は手の甲を口に当てて、くすくす笑った。水仕事などしたことがないのではないかと思うような、きめの細かい肌をしている。爪を長く伸ばし、口紅と同じ色のマニキュアをしている。
立ち話じゃなんだから、と言って加奈子は文絵の腕を取ると、強引にロビーのソファに座らせた。
テーブルを挟んで腰かけると、加奈子は文絵の都合も聞かず、中学時代の思い出話をはじめた。歯が出ていてビーバーというあだ名をつけられていた教師がいた話や、頭がよく生徒会長を務めていた錦という生徒がいた話などを、懐かしそうに語る。
その思い出話を聞いているうちに、杉浦加奈子、という生徒の面影がうっすらと思い出されてきた。学年は覚えていないが、たしかに同じクラスにそのような名前の女生徒がいた。苗字と名前の二文字をとって、スギカナ、と呼ばれていたはずだ。
「杉浦さん、昔、スギカナって呼ばれていたんじゃなかった?」
文絵がそう言うと、加奈子は目を輝かせた。
「そうそう。その、スギカナよ。やっと思い出してくれた?」
文絵は改めて、目の前の加奈子に目を凝らした。
加奈子は、背は文絵と同じくらいだがスタイルがいい。手足は長く、胸はほどよいふくらみを持っている。サングラス越しに透けて見える目はぱっちりと大きく、鼻筋は通り、口の形もいい。加奈子が動くたびに、シルク素材と思われるブラウスの胸元のフリルが、優雅に揺れた。
文絵は自分の記憶に疑念を抱いた。
もともと記憶力はいいほうではない。服用している安定剤のせいか、最近は物忘れがひどく、記憶が混乱することもたびたびあった。もし、そうだとしても、自分の頭のなかのスギカナと、目の前にいるスギカナはあまりに違っていた。自分が知っているスギカナは、地味でクラスでも目立たない存在だったはずだ。それとも自分の記憶の劣化が激しく、別な誰かと混同しているのだろうか。
懸命に自分のなかの杉浦加奈子を思い出そうとするが、加奈子の姿は靄がかかったように、ぼんやりとした輪郭しか浮かんでこない。どうしたものか対応に困っていると、そんな気持ちを推察したのか、加奈子は文絵の視線を避けるようにうつむいた。
「私、変わったでしょ」
加奈子はサングラス越しに文絵を見た。
「整形したの」
文絵は戸惑った。
ひと口に整形といっても、さまざまな施術法がある。ヒアルロン酸やボツリヌス菌から作られた製剤などを皮膚に注入し、鼻を高くしたり小顔にしたりするプチ整形から、目頭を切開して目を大きくしたり、鼻や顎に特殊な医療素材を入れ、顔の印象そのものを変えてしまう本格的なものまで幅広い。大学のときの友達から仕入れた知識だ。
加奈子の言う整形が、どちらを指しているのかはわからない。しかし、女性が整形していると告白するには、抵抗があるはずだ。しかも加奈子は、二十年以上も会っていなかった他人だ。そんなデリケートな話を、なぜここでするのだろうか。
「牟田さん、私のことよく覚えていないでしょう」
文絵は返答に困った。たしかにそのとおりだ。それは、文絵にとって加奈子はさして重要な存在ではなかった、ということになる。覚えていないと告げることは、加奈子に対して失礼にあたると思った。
言い淀んでいる文絵を無視して、加奈子は話を続ける。
「私ね、ブスで地味な自分が、嫌で嫌で仕方なかったの。ファッション誌を読んでおしゃれの勉強をしたり、メイクもいろいろな方法を試してみた。でも、素材がだめだと、なにをやってもだめなのね。いまどきの服を着ても、人気タレントと同じ髪型にしても、なにも変わらなかった。ブスはブスのままだった」
加奈子は自嘲気味に笑う。
「辛くてね。どうしたらきれいになれるのか、いつも考えてた。でも、私、ある出来事をきっかけに気づいたの。このままじゃ私、一生ブスで地味で冴えない女だって。自分の顔そのものを変えなきゃだめなんだって。だから、整形した」
淡々と話してはいるが、声には固い決意を秘めた凄みがあった。
加奈子はふっと息を吐くと、引き締めていた口元を緩め、文絵を見た。
「私にとって牟田さんは憧れの存在だった。きれいで華があって、男子からも女子からも人気があった。いつも輪の中心にいて輝いていた。牟田さんのようになりたい、っていつも思ってた」
文絵は中学時代の教室を思い出した。そう、いつも自分の周りには人がいた。自然に人が集まり、輪ができた。誰もが文絵をきれいだ、可愛い、ともてはやした。輪の中心で文絵は、ちやほやされる心地よさと優越感を覚えながら笑っていた。
加奈子は腕を伸ばし、文絵の手に自分の手をそっと重ねた。
「会えて、本当に嬉しい」
文絵は重なっている、ふたつの手を見た。
爪の手入れもしていない、浮腫んで膨らんだ手に、白くきめ細やかな手が重なっている。色鮮やかな赤いマニキュアが目に眩しい。
——ちょっと待って。
思考が、中学時代から現在に戻る。
あの頃の自分といまの自分は似ても似つかないはずだ。なんで牟田文絵だとわかったんだろう。
「憧れの牟田さんに二十年ぶりに会えるなんて、信じられない。芯からきれいな人は、体型や年齢が変わっても、やっぱり内から光るものがあるわよねえ……」
——嘘だ。おべんちゃらに決まっている。
顔が一気に熱くなった。
学校のアイドル的存在だった生徒は、いまや同級生の前で醜い姿を{晒‖さら}している。変わり果てた自分が、たまらなく恥ずかしくなった。
「ごめん。家の者が待ってるから」
文絵は加奈子と目を合わせず、ソファから立ち上がった。
「待って!」
立ち去ろうとした文絵の腕を、加奈子が掴んだ。まともに顔を合わせることもできず、目の端で加奈子を捉える。加奈子は文絵を下から見上げながら、腕を掴んでいる手に力を込めた。
「牟田さんと、もっといろいろお話ししたいの。昔の話でもいいし、いまの生活の話でもいい。なんでもいいの。牟田さんと仲良くなりたい。憧れだった牟田さんと」
いたたまれなかった。
加奈子が憧れていた自分は、もういない。ここにいるのは、冴えない、地味でデブな女だ。
「本当にもう行かないと」
掴んでいる手を振りほどこうと、腕に力を込める。だが、加奈子は手を離すどころか、両手で腕に縋りついてきた。
「私、牟田さんにお礼がしたいのよ」
「お礼?」
文絵は思わず振り返った。加奈子に礼をされるようなことなど、した覚えはない。
加奈子は優雅に微笑んだ。
「牟田さんは覚えていないかもしれないけれど、私は忘れていない。いつか牟田さんに会えたらお礼がしたいって、ずっと思ってた」
「私、あなたになにをしたの」
加奈子は問いに答えず文絵の腕をぐいっと引っ張ると、無理やり自分の隣に座らせた。
「私ね、鎌倉に別荘を持っているの」