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柚月裕子『ウツボカズラの甘い息』がすごい

2015.12.06 公開 ポスト

大藪春彦賞作家が描く、戦慄の犯罪小説!!

試し読み連載(6・最終回)
なにより、加奈子が言う、
いい話というのが気になった。柚月裕子


 加奈子の話によると、自宅マンションは都内にあるが、海と山に囲まれた景観が好きで、鎌倉に一戸建ての別荘を買ったのだという。購入して三年になるが、週末の大半は別荘で過ごしている、と加奈子は言った。
 文絵は驚いた。
 都内にマンションを所有しているほか鎌倉に別荘を持っているなど、よほど経済的に余裕がなければできないことだ。
 改めて加奈子を見ると、身につけているものは高価なものばかりだった。有名ブランドのバッグに腕時計。首に巻いているスカーフも、いま文絵が着ているスーツより高いかもしれない。話しぶりと身につけているものから、加奈子が裕福な生活を送っていることは窺えた。
 加奈子は文絵の手を握った。
「ねえ、ぜひ別荘に遊びに来て。ここで偶然、牟田さんに会えたのも、なにかの縁だと思うの」
 加奈子はねだるような声で、文絵を誘う。
「自慢じゃないけど、海が一望できる快適な家よ。そうそう、最近、近所にベーカリーショップがオープンしたんだけど、そこのクロワッサンがすごく美味しいの。どこかの女性誌にも紹介されてたんだけど、行列ができるほどの評判なのよ。話題のパンと美味しい飲み物を用意して待ってるから、ゆっくりお話ししましょう。たまには、気分転換もいいものよ」
 加奈子は文絵の手を離そうとしない。この調子だと、文絵が肯くまで離さないだろう。
 はじめは、人気者だった自分の変わり果てた姿を見られるのが恥ずかしくて、すぐにでもこの場を去りたかった。でも、加奈子は再会を心から喜んでいる。それは嘘ではなさそうだ。
 ここまで言ってくれるなら、誘いに乗ってみようか。たしかに、平凡な日常には飽き飽きしていた。
 気持ちが動く。
 わずかな沈黙から、文絵の心の揺れを察したのだろう。加奈子は具体的に、会う日にちの相談をはじめた。
「牟田さんは平日と週末、どっちがいい? 私は時間に縛られてないから、いつでも大丈夫よ。牟田さんの都合に合わせるわ。ねえ、いつなら時間取れるかしら」
 文絵は深い考えもなく、聞かれた問いに答えた。
「子供がいるから、どちらかといえば週末のほうがいいかな」
 加奈子は目を輝かせ、身を乗り出した。
「じゃあ、次の土曜日なんてどう? ね、そうしましょう」
「あ、いえ、まだ行くと言ったわけじゃ……」
 加奈子は文絵の戸惑いなどおかまいなしに、文絵が来る日は人気のパンが売り切れる前に早めに買い物に出掛けなければいけない、とか、飲み物はこのあいだイギリス旅行に行ってきた友人から貰ったアシュビィズにしよう、などと当日の予定をたてはじめている。
 加奈子のはしゃぎぶりを見ているうちに、文絵の心は再び沈みはじめた。
「アシュビィズのハニーがとても美味しいの。一緒に飲みましょう」
 たしかアシュビィズとは、イギリスでも伝統のある有名な紅茶だったはずだ。会社に勤めていた頃、紅茶に凝っている同僚がいて、その子から聞いたことがある。
 都内の自宅マンション、鎌倉の別荘、人気ベーカリーショップのクロワッサン、イギリス土産の紅茶。
 千葉の片隅にある中古住宅に住み、ローンの支払いに追われ、スーパーの特売品を買いに走る毎日を送る文絵にとっては、別世界の話だった。
 日々の暮らしに追われる者が、富裕層の生活に触れたところでなにも得るものはない。劣等感と惨めさが増すだけだ。
「ごめんなさい。私やっぱり……」
 文絵は加奈子の手の下から、自分の手を引き抜こうとした。その手を加奈子は離さなかった。
「牟田さん」
 加奈子は文絵の手をさらに強い力で握り、サングラス越しにまっすぐ文絵を見据えた。レンズ越しでも伝わる強い眼差しに、思わず息を呑む。静かだが重みのある声で、加奈子は言った。
「あなたにお願いがあるの」
「お願い……」
 文絵は眉根を寄せた。
 久しぶりに会った元同級生に、なにを要求するのか。瞬時に頭に浮かんだものは金だった。借金の話だろうか。だが、すぐに打ち消した。加奈子から聞いた暮らしぶりや身なりから、金に困っている様子はない。万が一、そうであったとしても、いまの文絵の質素な身なりを見て、借金を申し込むとは思えない。では、ほかになにがあるというのか。
 加奈子は真剣な表情を和らげ、にっこりと微笑んだ。
「長くなるから、この話は今度家に来たときにするわ」
 加奈子はバッグからメモ帳とペンを取り出すと、さらさらとなにか認めた。書いたページを破り、文絵に差し出す。
 受け取ったメモには、固定電話の番号が書かれていた。
「私の連絡先よ。牟田さんのも教えて」
 加奈子はメモ帳とペンを、文絵の手に握らせた。文絵は戸惑った。加奈子の別荘に行くつもりはない。自分の連絡先を教えても意味がないことだ。かといって、連絡先の交換を拒む理由も見つからない。
 文絵は自分の携帯の電話番号を書いて、加奈子に渡した。加奈子はバッグにメモ帳とペンを入れると、留め金を閉じた。
「じゃあ、今度の土曜日に会いましょう。時間はそうねえ、お昼を一緒に食べたいから十一時くらいに鎌倉でどう? 着いたら電話して。駅まで迎えに行くから」
 文絵は慌てた。
「待って。私、まだ行くって決めてない」
「どうして?」
 加奈子が小首を傾げる。文絵はとっさに取り繕った。
「まだ、夫や子供の都合も聞いてないし、用事が入っているかもしれないし……」
「なあんだ」
 加奈子はほっとしたように笑った。
「今週がだめなら来週にしましょう。土曜日がだめなら日曜でもいいのよ。さっき言ったとおり、私はいつでも大丈夫だから」
 加奈子は文絵を見つめながら、改めて強く手を握った。
「今日、憧れの牟田さんに会えて本当に嬉しかった。まだまだ話したいことがたくさんある。ほら、一組の太田くんと高橋くんが取っ組み合いの喧嘩をして大騒ぎになった話とか、運動会のリレーの最中に、校庭に犬が迷い込んで競技が中止になった話とか」
 言われて、そんなことがあったことを思い出す。楽しかった日々が蘇る。自然に口元に笑みが浮かぶ。
 加奈子はうつむいている文絵の顔を、下から覗き込んだ。
「ね、思い出話、いろいろしましょ。それにさっきの、あなたにお願いしたいことがあるって話、悪い話じゃないのよ。それどころか、とってもいい話。言ったでしょ。あなたにお礼がしたいって」
 加奈子は掴んでいる手を離した。
「じゃあ、土曜日、十一時に。駅に着いたら連絡して。必ずよ」
 加奈子は何度も文絵のほうを振り返り、手を振りながらホテルを出ていった。
 エントランスにひとり佇む文絵は、加奈子の連絡先が記されたメモを見つめた。生活水準の差を見せつけられて、惨めな思いをすると思うと気が乗らない。しかし、学生時代の思い出話をしながら、楽しい時間を過ごしたいという思いもある。なにより、加奈子が言う、いい話というのが気になった。
 ——一度だけ行ってみようか。
 受け取ったメモを失くさないよう、文絵はバッグの内ポケットに大切にしまった。

 

※本記事は『ウツボカズラの甘い息』(柚月裕子著)の全464ページ中50ページを全六回に分けて掲載した試し読みページです。続きは『ウツボカズラの甘い息』単行本をご覧下さい。

 

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柚月裕子

1968年岩手県生まれ。2008年『臨床真理』で第7回『このミステリーがすごい!』大賞で大賞を受賞しデビュー。2012年『検事の本懐』で第25回山本周五郎賞にノミネート、2013年同作で第15回大藪春彦賞を受賞。著書に『最後の証人』『パレートの誤算』『朽ちないサクラ』など多数。

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