「騒<GAYA>」というジャズ・スポットは初台の甲州街道沿いの汚いビルの中にあった。僕と女房は退屈するとよくその店で時間を潰した。僕はともかく、女房は相当のジャズ通だった。ライブ・スポットとは名ばかりの、ミカン箱が椅子の代わりに置いてあるような殺風景な店だった。僕と女房は、そこでサントリー・ホワイトの水割りを飲み、女主人と話し込み、たまに、名前も聞いたことのない、若いジャズメンの生を聴いた。
ステージもないその店で、阿部薫が奏ることになったと女主人に聞かされたのは、鈴木いづみと阿部薫を識ってから、随分とたってからのことだった。生を聴かせて下さい、と頼んでも、俺は気が向かないとダメだから、と気負うでもない彼のはにかむような答えが返ってきて、一体、いつ演奏しているのかと、生活費のことも考えると心配だった。
ただ『なしくずしの死』とタイトリングされた二枚組のLPだけは突然のように僕の自宅に送られてきたりして、そういう意味では阿部薫は確かにプロのジャズマンなのだった。
夜の街で阿部薫にばったり出くわすと、
「せっかく、やる気になったのに、サックスが質屋に入っていてどうしようもなかった」
とサラリと言って雑踏に消えて行き、鈴木いづみからは、
「今夜も、薬の飲み過ぎで、彼はライブのステージをすっぽかしてしまったんですよね」
などと電話がかかってきたこともあったから<GAYA>で奏ることになったと聞かされても、ちょっとにわかには信じがたかった。
その幻のジャズマンのプレイを僕はようやく<GAYA>で聴いた。客は、僕と女房、そして鈴木いづみ。それで全部だった。
阿部薫の演奏中、鈴木いづみは眼を瞑(つむ)ってその昏い音を聴いていた。時折、サントリー・ホワイトの水割りを一気に飲み干し、お代わりを注文し、また眼を閉じた。
鈴木いづみの脳裏をよぎっていたものは、一体、何だったのだろう。確かな手ざわりで存在した遠いかつての濃密な時間だったのだろうか。それとも、自らを切り刻んでも切り刻んでも追いつけない、阿部薫の深い闇に想いを馳せていたのだろうか。
阿部薫はほとんど蹲(うずくま)るようにして、奏っていた。メロディを拒絶した、単なる一個、一個の音が、阿部薫の肉体から絞り出されていた。世界(メロディ)に奪われた音を<物(ブツ)>そのものに還そうという悲壮な意志に満ちた破壊と再生を賭けたアルト。過激というよりは、それは音の究極に近かった。
この男はもう長くはないなと、僕ははっきりと思ったが、それを口に出すのはあまりにも馬鹿げていた。阿部薫のアルトを生で聴いた者は誰でもそんなことは思っただろうし、誰よりも鈴木いづみがそれを一番よく知っているはずだった。
数ヵ月後、阿部薫は薬の飲み過ぎで、あたかも予定されたように、逝ってしまった。
<GAYA>で行われた追悼コンサートも葬儀も、友人達の集まりにも僕は一度も顔を出さなかった。
「薬(ドラッグ)でも演奏(プレイ)でも俺は一度だって楽(ハイ)になったことがない」
「俺はアルトになりたい」
いつか二人きりになった時、阿部薫が呟いた言葉、言葉を僕は思い出していた。
鈴木いづみは、以前と変わらず淡々とした調子で僕に電話をかけてきて、阿部薫について、二人の間に生まれた子供について、そしてこれからの生活について果てしなく喋り続けた。鈴木いづみにしてはめずらしく、時折、感情を込めて呻くように「さみしい」という言葉が発せられていた。
鈴木いづみが生きていく理由は、これでほとんどなくなったな、と僕は思っていた。
できるなら――、
と僕は言った。
「何年先になってもいいから、阿部薫との出会いから別れまでを長い小説にして欲しい」
それをきっちりと書き終えてから鈴木いづみは死ぬべきだ。
鈴木いづみはやがて小説なんて書かなくなるだろうという予感がしたが、その時はそんなことでも言わなければたまらない気分だった。
「そうね。やらなくっちゃあね」
鈴木いづみは独り言のようにそう答えた。
それから数年がたった。僕は会社の部署を三つも変わり、『月刊カドカワ』の編集長になったが、その年の冬の終わりに電話がかかるまで鈴木いづみのことを思い出すことはなかった。
鈴木いづみは生活保護を受けながら阿部薫との子供を育て、その電話の数週間後、子供の目の前で首を吊って自殺した。享年36歳。
鈴木いづみと阿部薫のことはここに書いた以上には、もう明確に思い出すことができない。
今でも耳にこびり付いて離れない言葉がたったひとつだけある。
阿部薫が死んだ年の冬、僕は女房と離婚した。それを電話で知らせた時、鈴木いづみは少し間を置いて、
「長く生きていると、人はみんな、さみしいね」
と言った。