自転車くんの長い旅
第45回「強盗事件」1996年7月 ペルー
前方およそ30mにある草の茂みの中から一人の男がヌッと現れた時、ぼくは全身が凍りついた。
ここは広大な砂漠のど真ん中だ。一番近い村でも100km離れている。そんなところで男がひとり、ピクニックをやっているわけがないし、道に迷って途方にくれているなんていう可能性もたぶん、ない。
男は下を向いたまま道路の端に立ってじっとしている。ぼくは自転車をこぎながら必死で考えた。ど、どうしよう。Uターンして逃げようか? でも相手は必ず車も拳銃も持っているはず。下手に逃げて後ろから撃たれたらシャレにならん。このまま進むしかない。奴が強盗ではない、というわずかな希望にすべてを託そう。
しかし、相手が10mまで迫ったあたりで、その一縷の望みも空しく消えた。男は突然、顔を上げ、ふところから拳銃を取り出し、鬼のような形相でこちらに突進してきた。彼は何か大声でわめきながらぼくのえり首の後ろをつかみ、腹に拳銃を押し当てた。
死ぬ──。
ぼくは一瞬、ポカンとなって、目の前に迫った「死」を見つめた。
別の場所から二人の男が現れた。彼らは自転車を草の茂みの後ろに倒し、それからぼくを引きずるようにして砂漠の奥まで連れて行き、砂丘の裏手にまわってぼくを押し倒した。大量の砂が髪にかかった。さらに彼らはぼくの両手両足をロープで縛った。この瞬間、安堵した。「これで殺されはしない」と思ったのだ。殺す気ならこんな面倒くさいことをせず、最初から撃っているだろう。
自分でもおかしなくらいに冷静に状況を見ていた。反面、彼らの慌てぶりはほとんど滑稽だった。一人の男がぼくに拳銃をつきつけたまま、自転車のほうで作業している二人の仲間に「ラピッド、ラピッド!(急げ、急げ)」と狂ったように叫んでいる。まるでテレビドラマでも見ているみたいだ。
10分ほどして彼らは作業を終え、ぼくを放置したまま車で去っていった。自分でなんとかロープをほどき、さっき自転車が置かれたところまで歩いていった。自転車が見えてホッとしたのは一瞬だけで、そこに付けていた6つのバッグがすべて持ち去られていることがすぐに分かり、ガックリ肩を落とした。キャンプ道具をはじめ、カメラ、衣服、薬、工具、といった装備品から、日記帳、お金、パスポート……すべて失ったのである。
とはいえ、自転車の周りにはいろいろなものが散乱していた。強盗たちが車にバッグを積み込む際、いろいろ落としたに違いない。もちろん、ろくなものはなかった。ペンとかタオルとか、そういったものだ。それをひとつひとつ拾い上げていくうちに、ひどく空しくなってくる。だが、その中に信じられないものが落ちていた。なんと財布である。
「はん、どうせ中身はぬかれているのだろう」と思いながら中を開けてみると、入っているではないか! 普段使う小銭入れのような財布だったから全部で200ドルほどしか入っていなかったが、これはいったいどういうことだ? ひょっとして彼らはぼくにお慈悲をかけてくれたのだろうか? 一瞬でもそう思った自分がいかに甘いか、この後すぐに知ることになった。自転車のハンドルに付けていたメーターまで引きちぎって持っていかれているのを発見したのだ。奴らに、情けなどあるはずがない。おそらく財布もかばんのポケットから落ちたのだろう。下が砂だったから音は出ず、彼らは気付かなかったのだ。
いずれにせよ、この200ドルのおかげで本当に助かった。これで当分の生活費はまかなえる。
すべて拾い集めてから、100km先の町にヒッチハイクで向かうことにした。ぼくは道の真ん中に立ち、前方から来たトラックに向かって、両手を振って「止まれー!」と合図した。トラックはぼくの手前で止まり、運転席から男が顔を出した。事情を話すと彼は快くぼくと自転車を荷台に乗せてくれた。
砂漠は、その日、異様に美しい顔を見せた。日が地平線へと消え、空がいちめんピンクに染まるのと時を同じくして、海のような真平らの砂漠もまたいちめんピンクに染まった。
ぼくはトラックの荷台で風に吹かれながら、それを呆然と見ていた。なんだか、あてつけられているような気がして、余計に自分の今の境遇がみじめなものに思えてきた。だが一方で、その圧倒的な風景と色に、放心し、奇妙に感動していた。
町に着くころには暗闇があたりを覆っていた。トラックの運ちゃんはホテルの彼の部屋にぼくを泊めてくれ、メシまでご馳走してくれた。
次の日、警察に行って報告する。犯人逮捕など微塵も期待していないが、保険を申請するのにポリスレポート、つまり盗難証明書が必要なのだ。これが大いに苦労した。観光客の来ないこういった町では、何もかもがまったく要領を得ない。しかも警官の一人は賄賂まで要求してくる始末だ。ふざけやがって。
「てめえら、身ぐるみはがされた俺からまだ何かをせびりたいんか!」
ぼくは完全にキレ、怒鳴りまくり、やがてみじめな気分になった。なんとかポリスレポートを書いてもらうことには成功したが、すべて終わったのはなんと夜の10時。心身ともに疲れ果てたぼくは、「今晩はここに泊まらせろ!」とバカポリスたちの向こうをはった強引な要求をつきつけ、警察署にまんまと泊まることに成功した。
会議室がぼくの寝室にあてられた。暗くガランとしたその部屋に横になってしばらくすると、急に体がガタガタ震え出した。この時になってやっと恐怖がやってきたのだ。強盗たちの血走った目や腹に押し当てられた銃口の冷たい感触が何度もよみがえってきて、いつまでも寝付けなかった。
次の日の夜、夜行バスでここから800km先の首都のリマに向かうことにした。すべての装備品を失った今、自転車で旅を続けるのはほとんど不可能だった。リマまで行けばあるていど装備品もそろうだろう。それに日本大使館に行ってパスポートを再発行しなければならない。
リクライニングのシートに深く身を沈め、窓の外を見ていた。奥行きのある深い暗闇がどこまでも続いた。相変わらず延々と砂漠が続いている様子だった。ぼくは茫然と暗闇を見つめていた。
ふいに、暗闇の中に何かが見えたような気がした。蛍の光のようなものだった。
「あ」
その時、ぼくはようやくあることに気付いた。
ぼくは、まだ生きているのだ。
こうして、息をし、暗闇を見つめ、感じている。生きているのだ、これからなんでもできるではないか──。
「生きていること」がそのまま無限の「可能性」であるように思った。これまでに味わったこともない大きな力があった。光が一気に目の前に広がっていくようだった。ほとんど爽快でさえあった。
やるぞ、まだ終わっちゃいない、せっかく生かしてくれたのだ、だったら、精一杯生きてやろうじゃないか──。
バスは深い暗闇の中を力強く突き進んでいた。
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自転車くんに会いに行く
女優――井上晴美。もう5年以上、世界を自転車一つで旅する男――“自転車くん”こと石田裕輔。二人はまだ出会ったことはありません。この連載は井上晴美と自転車くんが出会うまでを追いかける、リアルタイムドキュメントです!
※本連載は旧Webサイト(Webマガジン幻冬舎)からの移行コンテンツです。幻冬舎plusでは2003/04/15のみの掲載となっております。
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