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神様を大切にしている。今日出来ることに感謝をしている。そして家族や仲間を思いやる。シンプルだけど、人生で何が大切なのかが、見えてきます!
最終回は57歳で看護婦試験に合格した花城キミさんが、挑戦することについて語ります。
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男2人、女2人の子宝に恵まれ、旦那と2人、一生懸命子育てをしてきました。島一番の貧乏でも、子供の成長を見るのは楽しかった。僅かな月給で、おんぼろ家での6人暮らしでも、幸せを感じる、生涯で一番楽しいときでした。
私は、結婚前に養蚕試験所で得た技術で、絹糸を繭からほどいて織ることができます。だから、結婚後、それで内職をしていたのですが、蚕の繭から絹糸をほどくのは寒い冬の水仕事。それはとても厳しい作業でした。
「末は博士か大臣か」──。家庭の事情で進学できなかった旦那と私は、この言葉を胸に、子供たちにはなんとか進学させたいと必死でした。希望というものは力の源です。だから、蚕の仕事も、軍政府から繭をもらい受けて頑張りました。とはいえ、どんなに頑張っても一晩10枚がせいぜい。一枚仕上げて1セントでしたから、上がりは1日10セントがやっとでした。
子供たちは、それをまとめて大事に会社に持って行き、代金を受け取ってくるのが役目。そうして、少しずつ貯めていったお金で靴を買ってあげました。その時の子供たちの嬉しそうな顔ったら。今、思い出しても懐かしい顔です。
そんなふうにしながら、子供が小さいうちは、旦那の薄給でなんとかやってこれましたが、このままでは4人とも進学させるのは難しい。私ももっと頑張らねばと思い始めました。
そんなところに吉報。石垣島の八重山病院で採用が決まったのです。看護助手です。看護婦ではなく看護助手で、その仕事はとても大変でした。掃除、患者の身の回りのお世話、結核患者の痰つぼの洗浄、食事の配膳、食器洗いなど、格好いい看護婦さんから比べたらきつい。それに、結核患者と接するので、万が一家族に結核が伝染ってはいけないと、毎日不安でヒヤヒヤしていました。
ただ、一枚一円の蚕の絹の織物に比べたら、考えられないほどのお給料をいただけたので、その収入の安定・安心感は、何ものにも代え難かったことを覚えています。それにしても、その金額からどんなにか大変なお仕事だったかもわかりますね。本当に大変だった!
でも、私は、それに甘んじることはありませんでした。57歳で、看護婦の資格を取ることを決心したのです。時は“看護婦不足”。戦後の復帰特別措置法で働きながらでも資格が取れることになり、ぜひ、看護婦になりたいと思いました。
看護助手から見れば、「看護婦さん」は憧れ。白衣を着てみたい。偉くなりたい。
負けない、負けない!
そして、自分を磨けるときだと思うと嬉しくて、猛烈に頑張りました。昼間は看護助手として勤務し、夜はレポートをまとめ、日曜日には朝の8時から病院の先生方に指導をしていただきました。内科・外科・眼科・婦人科のそれぞれの先生から6カ月間の指導。
もうすぐ60歳という私の年齢は、ほかの受験者の中でも最年長で、一緒についていけるのかと不安でした。でも、やるしかない!
結果は、合格。しかも、一番の成績だったと聞かされました。
しかし、よくよく考えたら、私はあと3年で60歳、定年です。長年務めた看護助手と新人看護婦を比較すると、お給料の差は歴然。憧れの白衣はあきらめ、看護助手として、残りの勤務を務めあげることにしたのでした。
残念ながら57歳の白衣の新人は、幻となりましたが(笑)。
そうそう、子供たち4人はみんな、大学進学を果たすことができました。博士にも大臣にもなりませんでしたが、夢を叶えてもらえて、子供たちには感謝感謝と思っています。
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