「裏切られたから」
武内は自白段階でそう答えている。何を裏切られたのか? その問いには、「私が的場さんにプレゼントしたネクタイを、彼がまったく使っていなかったから」と答えている。
こんな動機が成立するのだろうか。そういう取るに足らないきっかけで惹(ひ)き起こされる犯罪を否定するつもりはない。せっかくネクタイをプレゼントしたのに、相手に使う気がないと分かったら気分を害するかもしれない。相手は相手でネクタイなど好みの問題だから、たとえ好意でプレゼントされたものだとしても、気に入らなければ使わないだろう。そういう贈り手と貰い手の気持ちのずれが何らかのトラブルの火種にならないとは言わない。
しかし、この武内という男が終始法廷で見せ続けている穏やかな立ち振る舞いを前にしていると、たかがネクタイで……と、首を傾げてしまうのだ。当てはまらないし、相応(ふさわ)しくない。ましてや公判に入って武内がその供述を全面否認するに至っては、メッキのように薄っぺらい作り物に堕してしまった印象がある。
そのネクタイは、夫婦惨殺の物音を聞いて二階から下りてきたと思われる息子を絞殺したときの凶器となっている。この事件の鍵の一つである。捜査当局はその鍵を都合よく持ち出した上、かなり強引に動機の辻褄(つじつま)合わせをし、連日の過酷な取り調べで疲労困憊(こんぱい)した被告人から誘導を重ねて供述を取った。それが弁護側の主張であり、勲にもさもありなんと思わせる一理だった。
それだけならまだしも、この事件には、被告人の背中に広がる打撲痕という不可解な謎が残っているのだ。金属バットでの殴打によるものという凶器の認定では検察側、弁護側、双方の鑑定人が一致。被告人のシャツの背中に夫婦の血が付着していたことから、その金属バットは夫婦を殴打したあとに被告人の背中を殴打したものと見られる。現場に残された金属バットは夫、的場洋輔(ようすけ)所有のものであり、それが凶器として使われたのは間違いない。
問題は誰が被告人、武内の背中を打ったかということだ。
記録によれば、武内は肩から腰にかけて背中のほぼ全体に強い殴打を加えられており、肩甲骨二カ所の亀裂骨折、左手甲の亀裂骨折のほか、むち打ち、嘔吐、発熱などの症状が見られたという。
検察側はこの武内の負傷を本人の偽装工作によるものと見なした。大きな理由として、的場夫婦の被害は比較的頭部に集中しているのに対し、武内についてだけは後頭部などに目立った外傷は見られず、被害は背中に集中していることを挙げた。
対して弁護側は、武内は頭部を両手で覆っていたために被害を免れただけであって、その証拠に両手の甲には打撲痕があり、左手の甲は亀裂骨折しているとして反証した。さらに弁護側の鑑定人は、背中に広がる打撲痕は具体的に言うと、普通の大人が金属バットを持って振りかぶり、かなりの強さで振り下ろすような殴打を最低二十回以上繰り返した結果としてできる程度のものであると意見を述べた。つまり、自作自演でこのようなひどい打撲痕は作れないということだ。
検察側の鑑定人は、健康体の男性であればバットを後ろ手に持って肘の返しで背中に打ちつけるだけでも相当の威力が得られ、回数を重ねることによって被告人のような打撲痕を作ることは可能であるとの立場だった。元より検察側の鑑定人が実行不可能を主張するはずもなく、これに関しては見解の相違ということになる。だが、実際、勲自身が金属バットを持って背中に打ちつける真似をしてみた感覚では、証拠写真で提出されたようなひどい打撲痕にはならないのではないかというのが率直な思いであった。
犯行現場の的場邸は東京の調布市にある二階建て住宅。犯行は八月二十七日の夕方五時半。家の中に物取りの犯行を思わせる荒らされた形跡はなく、犯行時刻前後、近隣での不審人物の目撃情報もこれというものはなかった。玄関のドアは施錠されていなかったから、その点で何者かの侵入は可能な状況だった。ただ、家に誰かが土足で上がった足跡はなく、有力な指紋等の手がかりも残されていない。金属バットのグリップは指紋が拭われていた。
弁護側の主張では……武内は自供前、一貫してそう供述していたそうだが……的場夫婦と武内が一階のリビングで歓談していたところ、突然ストッキングをかぶった一人の男が現れたという。中肉中背で服装は黒系統のシャツにジーンズ。手には的場邸の玄関に置かれていた金属バットを持ち、無言のまま、まず一番近くにいた武内の肩にバットを打ち下ろした。そして武内がうずくまったところで、男は部屋の中央に進み入り、的場夫妻を交互に殴打した。
このとき隣家の池本邸では、池本亨の妻、杏子(きょうこ)が庭で鉢植えの花に水をやっていた。そこでざわざわとした悲鳴のような声や物音を聞いている。ただ、その声や音はびっくりするほど大きなものではなく、また長く続いたわけでもなかったので、そのまま聞き過ごされた。
武内が反撃に転じて暴漢に組みつこうとしたときには、暴漢の的場夫婦への攻撃はあらかた終わっていた。暴漢は武内を突き飛ばし、背中を中心に執拗な殴打を加えた。
当初から暴行を目的として犯人が侵入してきたのであれば、何らかの凶器を持参していたはずではないか、なぜその家にあるバットが凶器になったのかと検察側は疑問を投げかけたが、それについて武内に答えを出せというのは無理な話だ。真犯人にしか分からない。凶器を隠し持っていたものの、目についたバットのほうが効果的だと思ってそれを使ったとしても、何ら不自然ではない。
警察への第一通報者は武内。五時五十八分に一一〇番通報の記録が残っている。犯行から三十分ほどの時間が経っているが、これは負傷のダメージとショックから立ち直る時間だったと武内本人が述べている。まだ犯人が家の中にいるかもしれない。下手に動けば犯人は再び攻撃を加えてくるかもしれない。そんな恐怖と背中の痛みで、しばらくの間、身体を動かすことができなかったということだ。
犯人はその間にリビングのテーブルに置いてあった例のネクタイを手にして、階段で息子の的場健太を絞殺、そして首尾よく逃走している。検察の道筋をここに当てはめれば、武内はこの空白の三十分で偽装工作を行っていたとの見方になる。
決め手のない手がかり。空白の時間。幻の犯人。一人生き残った男……捜査が行き詰まったところで、当局がその突破口を第一通報者に求めたのは無理もない。しかし彼らが苦心して捻(ひね)り出した武内真犯人説のストーリーは、何とも不自然でいびつな出来だったとは言えまいか。衝動殺人を犯した者が、そのまま冷静に偽装工作を行うなど、あまり筋のいい話とは思えない。
それでも検察は力業で起訴まで持ち込んだ。司法のベルトコンベアに載せてしまえば、あとは九十九・九パーセントの精度で有罪にしてくれる。不良品は千個に一個しか出ない。彼らがその神話を頼りにしていたかどうかは知らないが、少なくとも、何とかなるだろうという甘えたところはあったはずだ。
「起立!」
廷吏が号令をかけ、この法廷に集った者たちが一斉に立ち上がる。一礼がそろった。
「それでは開廷します」
勲は椅子に腰を落ち着けてから、努めて柔らかい口調で声を発した。
「ええと、じゃあ今日は判決を言い渡しますからね。被告人は前に出てきて下さい」
手錠と腰縄を解かれた武内は、硬い動きで正面の被告人席に進み出て、勲と相対した。うつむき加減の顔は無表情だ。無理もないが唇が青い。
「はい。では判決ですね」勲は心持ち早口になり、淡々と口を動かした。「被告人に対する殺人事件について。主文から読み上げますから聞いて下さい」
主文から読むということは死刑ではない……この場にいる者がそう理解する暇も与えない早さで勲は主文を読み上げた。
「えー、主文。被告人は無罪」
誰も勲の声が聞こえていなかったかのように、法廷内は静まり返ったままだった。
「あと、認定事実や判決理由を読んでいきますけど、ちょっと長くなりますからね、被告人はそこに座って聞いて下さい」
武内は強張(こわば)った唇から「はい」とかすれた声を出して頭を下げた。
武内が操り人形のようなぎこちない動きで被告人席に腰かけたところで、やっと傍聴席の後ろが反応した。
「無罪、無罪」
ひそめながらも興奮したような声がその一帯を駆け巡り、何人かが法廷を飛び出していった。
遺族の顔も、野見山検事の顔も、勲は見なかった。
ただ、淡々、粛々と判決草稿を読み始めた。
※第3回は4月23日(土)公開予定です