勲が立ち上がろうとするところを野見山は手で制した。
「ここで結構です」
千分の一の貧乏くじを引いた検事は、暗い色をしたスラックスのポケットに手を突っ込み、勲の机の前、狭いところを右へ左へ意味もなく歩いていた。
「私に何か恨みでも?」
頬を引きつらせて訊(き)いてくる。
「まさか」勲は一笑に付した。
「あなたの独断ですか?」
「もちろん合議の上です」
実際にはかなり勲が引っ張ってたどり着いた判決だったが、勲自身それなりの自信があってのことである。部長が信念を持って進める合議に対して、右陪席や左陪席が刃向かい続けることはあり得ない。紀藤も中西もその点では平均的な裁判官だ。
「高裁で引っくり返りますよ。あなたの経歴に傷がつく」
「高裁……? というと、控訴をするつもり?」
野見山は答えるのも馬鹿らしいという顔をした。
控訴するのは検察側、弁護側の自由だが、控訴審でも第一審の判決はかなり重視されるのが現状だ。第一審こそ事件が風化しないうちに行われた生々しい裁判だからだ。多少量刑が動くくらいはあり得るが、まずは控訴棄却の決定がほとんどである。一審の判決がどんなに理不尽に見えようと、二審で有罪が無罪になったり、あるいは無罪が有罪になったりする極端な判決の揺れは望めないと言ったほうが正しい。コロコロ判決が変われば、裁判機能全体の信頼性が損なわれるという考え方もある。冤罪(えんざい)に泣く死刑囚たちも、このために苦しい闘いが続く。冤罪の芽があるなら、第一審で摘み取らねばならないのだ。
「老婆心を承知で言うけど、控訴はしないほうがいいんじゃないかな。あなたからも高検の人に言ったほうがいい。あれじゃあちょっと厳しいね。刑事部がもっと丁寧な仕事をしないと。三原さんあたりが孤立無援で可哀想ですよ」
野見山は勲の机に手をついて、身を乗り出してきた。
「武内はやっています。自白は任意です」
「検察側がそういう主張であることは承知してますが」
「あなたは殺人犯に何の制裁も与えず、社会に解き放ったんだ」
「野見山さん」勲は立ち上がって、自分のロッカーから金属バットを取り出した。「これで自分の背中を打ってみたらどうだね。とてもあんな打撲痕はできない。あなたのやるべきことは私に八つ当たりすることじゃなく、警察にハッパをかけて逃走した幻の真犯人を捜し出すことだ。そうしないと的場親子だって、いつまで経っても浮かばれない」
野見山は鋭い視線をバットと勲の顔に往復させた。言葉は何も出てこなかった。
「まあ、しかし」勲はバットをロッカーに仕舞い、勝手に緊張を解いた。「こうやって野見山さんと顔を合わせるのも、もうないかもしれないね」
「そろそろ異動ですか」野見山も暗い眼つきながら、冷静な声を出した。「でも梶間部長は確か三鷹の連続保険金殺人も担当されている。あれが終わらないと異動はないでしょう」
三鷹市で起きた連続保険金殺人事件は被害者が四人にも上った大きな事件で、三カ月前から公判が始まっていた。
「あの事件が回ってくるとは思ってなかったんでね……ちょっと迷ったけど、そうやってるときりがないし、気持ち的には決まってましたから」
「とおっしゃると?」野見山が眉を動かす。
「退官するんです」
「へえ」野見山は無感情な声で感嘆した。
「家庭の問題をあなたに理解してもらえるかどうか分からないが、老いた母がとうとう動けなくなってしまってね。この先どこかに異動しろと言われても難しくなった。介護の手も足りないし、この際思い切って決断することにしたんです」
実際には、ある大学から教員の誘いを受けているのも理由の一つだった。しかし、あえてこの場で言うことでもないと思い、そこまでで止めておいた。
「それはそれは、お大切に」野見山は神妙な表情を見せたが、その口元は歪んだままだった。「梶間部長がそんなにお母さん思いだとは知りませんでした。間違っても死刑判決確実の三鷹事件から逃げるというわけではないんですね」
そう言って、彼は背中を向ける。勲はまともに返答する気も起きず、嫌味な男が不快な空気を作るだけ作って去っていこうとするのをただ眺めていた。
「送別会は失礼しなきゃいけないかもしれません。私もいろいろ追われている身でして」
野見山はドアに手をかけたところで、余計としか言いようのない言葉を駄目押しした。
「ご心配なく。呼びませんから」
勲は彼の背中に言い返した。
※この連載は、文庫『火の粉』の〈1〉判決(〜p.35)の試し読みです。続きはぜひ原作をお手にとってお楽しみください。