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高野病院日記

2017.04.06 公開 ポスト

最終回

馬鹿、何かを成し遂げたわけじゃない中山祐次郎

【Day 60】

最終日の朝、車を停めて。広野の火力発電所の煙突と、その下には高野病院。

今日は朝から曇っていた。車に乗り、ロッコクを走る。不思議と今日は道路が空いていて、いつもより15分早く病院に着いた。病院近くの海は凪いでいた。

いつものように院長室へ行き、白衣に着替える。少しでも気を抜くと感傷的になりそうだ。駄目だ、そんなことでは。僕は何かを成し遂げたわけじゃないのだ。ただ2カ月の間、給料をもらって医者の仕事をしただけだ。

朝から院長室を片付け、2カ月前に開けた段ボールをまた閉じた。ほとんどは開けてから2カ月間、何も取り出していなかった。じゃあコレいらないのでは……。

安定の朝食をいただき、ホクホクしながら一階の院長デスクに向かう。ぼちぼち出勤してきた看護師さんやスタッフと「おはようございます」と挨拶を交わす。最後のおはようかな、とよぎる思いを慌てて打ち消す。

いつものように、内科病棟2カ所と精神科病棟に行き、「リーダー」のナースから昨夜の発熱者などの情報をもらう。ま、それほど大きな問題はない。処方せんにさらさらと点滴や薬、糖尿病の人の血糖チェックの指示を書いていく。この指示が切れる頃はもう4月なのだ。また思いがよぎる。

外来に行くと、いつも来てくださっている大柄の外科医が、ばしばしやってくださっている。心強い。僕は院長デスクのまわりの荷造りをした。なにせ今日の午後にはヤマト運輸の方が集荷に来て、明日には南東北(みなみとうほく)病院の僕のデスクに送られるのだ。

10時になり、新院長の阿部先生がいらした。10時から、一緒に病棟を回りいろいろなことを伝えた。そう、僕の最後の仕事、「引き継ぎ」だ。実に多岐にわたる業務に、少し驚かれていたご様子だった。64歳になられる阿部先生はとても穏やかで、いかにも熟練の小児科医といった雰囲気。そして保健所長を3年もやっておられたので、保健行政にもお詳しかった。小児科医だから成人の医療はどうだと思われているだろうから、この3年ぐらい懸命に勉強をしていたと仰る。

僕と先生との会話は止まらず、結核やアシクロビル(感染症の治療薬)の話から、駒込病院(僕が10年勤めた病院で、感染症の専門病院でもある)の話、行政で医者が働く話、「トロイメライ」とオペラ蝶々夫人のアリア「ある晴れた日に」、30年前の高野病院の話、12月に高野病院に来て高野院長と会った話などをした。

そして高野先生の逝去と、僕の院長就任を報道で知った話もなさった。メディアの力は強い、と仰った。

そうしていると、日テレの番組「バンキシャ」の密着取材の方々が来て撮影していた。実は、1月末に高野病院にトランク1個で来た日から、計14日くらい密着取材を受けていたのだ。その結果は、あさって4月2日、日曜日の夕方6時からの「バンキシャ」で放送されるらしい。

昼になり高野己保理事長と一緒に食事をした。牛丼、美味かった。

午後には再び阿部先生と話し込んだ。なぜ彼が高野病院に来ようと思ったのか、躊躇した理由や2匹のワンちゃんのことなどお話した。そう、いつだって矢は後ろから飛んでくるのだ。

荷造りをして、患者さん一人ひとりに挨拶をして回った。

「すみません、私今日で辞めるんです。すみません」

と言うと、皆さん口を揃えて「何言ってんだー」と低い声で仰った。ある患者さんは僕の足を叩いた。腰がほぼ90度曲がっているから、僕のからだを叩こうとすると足になる。

「せっかく優しい先生が来てくれたのによ」

「すみません」

苦しかった。ただ苦しかった。

「でもなあ、頑張ってな。体に気をつけて頑張ってな。あのなあ、こんな90のばあちゃんに言われたんだから、覚えとくんだよ」

返事は、言葉にならない。

なかやまエエンチョウ。左は就任直後、右は疲れた顔をしていたのか紫の顔。同じ患者さんが描いてくださった。

院長席に戻ると、己保理事長と事務の方々が皆立ち上がって、餞別の品を渡してくれた。めちゃくちゃ重い。中にはジュースや広野産の米、会津のハチミツなどが入っていた。地元の特産品をくださったのだ。食べるたびに思い出すように。

己保理事長は、会津塗の小物入れをくれた。なんとも雅な漆塗りは、とても僕好みだ。ありがとうございます。

院長の名札と、PHS。

出発の時間が来た。僕は、その時どんな気持ちだったか。大きなたらいの中に水をいっぱい入れ、こぼさないよう慎重に両手で持ったまま歩く。そんな感じだ。ギリギリだった。


馬鹿、何かを成し遂げたわけじゃない、感傷的になるな。僕はそればかり呟いていた。自分が残る側の人間だったら、2カ月だけ働いて、テレビ・新聞に出て、スッキリしていなくなる奴をどう思うだろうか? そいつが感極まって泣いていたら、アホだと思わないだろうか?

いよいよ車に乗らねばならない時間が来た。来た時と同じ青いトランクを抱えてロビーに出ると、何十人ものスタッフがいた。たらいはぐらりと揺れ、あやうく僕は落としかけた。

「それじゃ先生、気をつけて!」

「ありがとうございました!」

「お元気で!」

何を言われているのかわからなくなる。僕がモタモタしていたら、病院出口の両側に皆さんが並び、両手でトンネルを作ってくれた。僕は慌てて写真を撮ると、トランクを押しながらトンネルを通り抜けた。そのトンネルは狭いし高さも低かったけど、眩しくて目を開けていられないほどだった。トンネルはいつまでも続いていた。僕はお元気で、ありがとう、ナントカさんよろしく、すみませんでした、と言いながら身を屈めて歩いた。たらいはぐらりと揺れて、水が溢れた。

スタッフの皆さんがつくったトンネルの向こうには。

どうしようもなく泣いてしまった僕は、逃げるように車に乗り込んだ。玄関に出て来たスタッフの皆さんは、いつまでも手を振ってくれていた。

さようなら、愛しい人たちよ。くれぐれも、お元気で。

広野駅よ、しばらくサヨナラだな。

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高野病院日記

福島第一原発から22キロ、福島県双葉郡広野町にある高野病院は、震災後も1日も休まず診療を続けてきました。病院でただ1人の常勤医として、地域医療を担ってきたのは高野英男院長。その高野院長が、2016年末に火事でお亡くなりになり、病院の存続が危ぶまれる事態になりました。その報に接し、2カ月限定で、高野病院で常勤医として働くことを決めたのが中山祐次郎さん。中山医師が、高野病院での日々を綴ります。

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中山祐次郎

1980年神奈川県生まれ。鹿児島大学医学部卒。都立駒込病院で研修後、同院大腸外科医師(非常勤)として10年勤務。2017年2月-3月、福島県高野病院院長を務め、その後、福島県郡山市の総合南東北病院外科医長として勤務。資格は消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医(大腸)、外科専門医、感染管理医師、マンモグラフィー読影認定医、がん治療認定医、医師臨床研修指導医。日経ビジネスオンラインやYahoo!ニュース個人など、多数の媒体で連載を持つ。著書に『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと~若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日~』(幻冬舎新書)、『医者の本音』(SB新書)がある。

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