小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。
近松秋江 ( 一八七六 〜 一九四四 ) Shuko Chikamatsu
近松秋江は、本名を徳田浩司といい、岡山県の出身である。上京して、東京専門学校(早大)を卒業、読売新聞、中央公論などに勤めるが長続きせず、「文壇無駄話」という文藝評論を書き始める。当初、徳田秋江を名のったが、徳田秋聲と紛らわしいので、好きな近松門左衛門からとって近松を名のる。
実家はカネがあったから、困窮したり病気になって実家へ帰り、また上京のくりかえしで、そのうち大貫マスという出戻り女を事実上の妻にし、小間物店を開いて七年ほどいたのだが、娼婦を買って梅毒になったか、ないしは別の女を世話をすると称して家に引き入れたりし、マスは下宿していた岡田という学生とできて出奔してしまう。
それから秋江の、マス探索の旅が始まり、岡山へ行ったり、日光で宿に泊まったという情報を得て、日光の宿の宿帳をしらみつぶしに調べて、マスと岡田が一緒に泊まったことをつきとめ、外へ出てぼろぼろと涙を流す。
帰京するとすぐ夏目漱石のところへ行ってその経緯を話し、漱石は熱心にメモをとっていたという。そして秋江の出世作「別れたる妻に送る手紙」と続編「疑惑」が書かれるのだが、マス宛の手紙の形式でありながら、その後なじみになった藝者を友人にとられたといった泣きごとを書き連ねるありさまである。なおこの友人というのは同郷の正宗白鳥で、白鳥は戦後、秋江が死んだあとで「近松秋江 流浪の人」を書き、秋江はあまりに怠け者なので同じ社にいても辞めてしまった、マスなんて汚い顔の女でどこが良かったのかと書いている。
秋江はもともと、政治とか国家について論じたかった人間で、私生活を赤裸々に書いたりしたくないと言っていたのが、結局そういうもので名をあげることになる。
次に秋江は、浄瑠璃好きだからか、盛んに関西に遊び、はじめ大阪の娼婦・東雲(しののめ)太夫に溺れるが、東雲は秋江が東京へ帰っている間に身請けされて台湾へ渡ってしまう。これも小説にする。さらに、鎌倉で某医学博士の妾をしているという「鎌倉の妾」が、愛読者だというので手紙をくれたのがきっかけで密通し、どうやらこの女は秋江の子を産むのだが、ほどなく死んでしまい、手を切る。
その前から京都の娼婦・金山太夫となじんでいたが、これは本名を前田志(じ)うといい、数年の交情ののち、またしても姿を消し、秋江は南山城あたりを探索し、志うが風邪から狂気に陥ったと知る。この金山太夫のことを描いたのが「黒髪」連作である。なお東雲太夫連作の最初も「黒髪」なのでややこしい。
そんな生活を四十代半ばまで続けたのだが、もしかしたら、親しかった徳田秋聲と同じように、小説の題材のためにという意識もあってこんなことをしていたのかもしれない。大正十一年(一九二二)、四十六歳で、指圧治療師の猪瀬イチと結婚して二人の娘をもうけ、「子の愛の為に」とか「恋から愛へ」といったものを書いて、女遍歴とは別れをつげ、「水野越前守」などの歴史小説を書くようになる。
しかしこの妻イチは、秋江の女関係に嫉妬したり、興奮して「俺」と言うなど粗暴で、その父と兄もイチの言うことを信じて秋江が虐待しているとなじり秋江を殴るなど、この結婚生活も悲惨だった。
最後は失明し、経済的にも窮迫した中で、戦争中に死んだ。白鳥は「怠け者」と言っているが、書いた量は多く、昭和三年から失明までつけた日記が、戦後火事のために焼けたが、それを見るととても精励恪勤(かっきん)の人に見えたという。白鳥の記述からすると、秋江はおそらくADHDだったのだろう。
*参考文献
・沢豊彦『近松秋江と「昭和」』冬至書房、二〇一五
文豪の女遍歴
夏目漱石、森鴎外、谷崎潤一郎他、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。