小谷野敦著『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)――夏目漱石、森鷗外、谷崎潤一郎ほか、スター作家62名のさまよえる下半身の記録。姦通罪や世間の猛バッシングに煩悶しつつ、痴愚や欲望丸出しで恋愛し、それを作品にまで昇華させた日本文学の真髄がここに。
太宰治 ( 一九〇九 〜 四八 ) Osamu Dazai
太宰治は、本名・津島修治、青森の名家の出で、父も兄も政治家、長女の夫が、自民党の津島雄二で、婿に入っている。作家の津島佑子は次女である。
東大生の時、女給の田辺あつみ(田部シメ子)と心中しようとして、あつみだけ死んでしまって太宰は助かり、そのことに罪悪感を抱いていたのは知られている。
しかし太宰は、特にあつみが好きだったわけではない。太宰には、初恋とか、好きになったが片思いに終わったとかそういう話があまりない。
太宰の「カチカチ山」では、狸が兎に恋をしてひどい目に遭わされる(というか殺されてしまう)のだが、この狸のモデルは太宰ではなく、弟子の田中英光である。太宰自身は、プライドが高く、片思いなどできない男だったのだろう。実際、太宰が、斎藤茂吉や倉田百三が書いたようなこっ恥ずかしい恋文を書くなどということは考えられない。だから、太宰の恋文というのは、戦後の愛人だった太田静子宛の尋常なものくらいしかないのである。
太宰は「道化」と自称するようなところがあったが、これは「絶対道化になりたくない」という意思の表明にほかならない。恋をするというのは、その逆の、道化になってもいい、という意思(というより、そんなことを考えない人格)から生まれるので、太宰には恋はできないのである。
岸田秀の『ものぐさ精神分析』に、『人間失格』を評して、その女への侮蔑的な視線を論じたところがある。「その頃、自分に特別な好意を寄せている女が、三人いました。…『私を本当の姉だと思ってゐてくれていいわ』。/そのキザに身震いしながら、自分は/『そのつもりでゐるんです』。/と愁えを含んだ微笑の表情を作って答えます。(略)或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました」というところを引いて、その冷酷さをあげつらっている。
もっともこれは、大庭葉蔵という男の手記なので、太宰がこの冷酷さを自覚していた可能性もあるし、左翼運動に対する太宰の嫌悪も混じっているだろうが、岸田は続編『二番煎じものぐさ精神分析』に収められた三島由紀夫論ともども、文学を論じたもののほうが冴えている。
太宰の場合、自分と心中してくれるかどうかで相手を試すようなところがあって、これがまことに嫌である。漱石の『三四郎』でも、美禰子が好きなのに、相手が思ってくれないならバカバカしいと思うところがあって、これが徳川期的な男性上位の恋愛思想で、太宰には私小説もあるが、花袋や近松秋江のような、自分が痴愚となって女を追い回したり泣いたりするような私小説を書くぐらいなら自殺するだろう。
太宰とかかわりがあった女性といえば、有明淑(しず、一九一九-八一)がいる。良家の娘の文学少女で、太宰に日記を送ってきて、それをもとに「女生徒」が書かれたのである。太宰と直接会った形跡はないが、のち尋常に結婚した。
太宰が好きだった、と言われているのが、石井桃子(一九〇七-二〇〇八)である。石井は長らく、黒衣(くろご)的な翻訳家だったが、『幻の朱い実』(一九九四)という自伝的長編小説を出して読売文学賞をとった。とはいえ世間の反響はいま一つだったのだが、今世紀に入る頃から、この小説に描かれたレズビアン的な関係が注目され、小里文子(おりふみこ)というその相手が、横光利一と一時同棲し、のち早世したことでもスポットライトが当たった。
のみならず、ロフティングの「ドリトル先生」シリーズは、井伏鱒二が訳したことになっているが、別に隠していたわけではなくて、『ドリトル先生アフリカゆき』のあとがきに、石井桃子が訳したのに井伏が手を入れて、さらに石井が直した、と書いてあり、石井の文章で、それはすっかり井伏のものになっていた、というのがある。
ところが、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』を見ると、そこのところが、妙な書き方になっている。井伏のところへ出入りした件では、太宰治が石井を好きだったという話が出てくる。だが「ドリトル先生」については、「石井と井伏が熱心になって出した」とあり、石井が提案し、プロデュースして出した、としつつ、「井伏が訳した」とも書いてなければ、石井が代訳したとも書いていない。つまりは井伏に遠慮した結果としか思えないのである。井伏は手紙で「代訳の人が訳したのを私が手を加へたもので心苦しい代物です」と書いている。
石井は太宰の二つ上なので、昭和十五年とすれば、太宰三十一歳、石井三十三歳だったことになる。石井の写真では、眼鏡をかけて上を向いたのが知られているが、一般的な美人ではなく、眼鏡萌え系の知的キュートで、もしかしたら太宰は、山崎富栄のような水商売的美女よりも、こういう知的女子が好きだったのかもしれないと思う。
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