――なるほど。杉山さんの人生を勝手にスゴロクにさせていただいた図表を見ますと(前ページ)、ターニングポイントがいくつかありますね。「ヒナドリのように電車が親だと思っていた」0歳から始まり、「日本の鉄道に全部乗ってやろう」と決意したのが12歳。18歳で鉄道趣味から少し離れ、本格的な「乗り鉄ライフ」に戻るのが36歳。そして今はライターとしてのお仕事も鉄道分野が中心になっています。
杉山 信州大学に受かって4年間、松本市に住んでいました。大学時代は車に乗り始めたので、電車からは遠ざかりましたね。松本は、やはり東京と比べると全国に電車で行くには不便ということもあって。それまでは、動いているんだったら、乗りたいという思いで、「廃止対象リスト」を優先し、乗った体験をせっせとコレクションしていたのですけれど。
でも正直言って、初めての一人暮らしが楽しくて仕方なかったんです。松本にいること自体が毎日、旅のようなもので、ミニカターボという軽自動車に夢中になってしまって乗り回してました。そういうこと言うと「裏切り者」とか言われちゃうんですけど(笑)。
――「乗り鉄」の中では、そういう途中休憩はナシなんですか?
杉山 そうですねえ。そういう経験をしている方は、いっぱいいるとは思いますけどね。就職とか結婚で、中断する時期は誰でもありますし。
――その後、杉山さんは就職されてからだんだん電車に戻ってきて、36歳で「本格復帰」されると。それは〝乗り鉄の神様〟と呼ばれる宮脇俊三氏(1926〜2003)が死去したことがきっかけだったとか。
杉山 やっぱりショックだったんですよね。「え? 死んじゃったの?」と、心の中にポッカリ穴があいてしまったようで。
宮脇俊三に始まり、宮脇俊三に目を覚まされる
杉山 12歳の時に、宮脇さんの『時刻表2万キロ』とか『最長片道切符の旅』を夢中になって読んで、そこから僕の〝乗り鉄人生〟は始まりました。その後、先生の本を何冊か読みましたが、社会人になってからそんなに熱心に新刊を追い求めてはいなかった。亡くなったと聞いて「あ、いかん」とハッとして、古本屋さんを巡って、昔出していた本を探し回りました。その時、宮脇先生に「乗りなさいよ、あなた。何してたの?」と言われているような気がして。「すみません先生、僕、忘れてました」という反省の念が湧き上がってきたんです。会ったことないんですけどね、宮脇先生には(笑)。
――話が逸れるうえにシロウト質問で恐縮ですが、宮脇俊三さんのすごさというのは、やはり1977年に国鉄路線の全線踏破を達成した、その1点につきるのでしょうか。
杉山 いや、それまで全国の鉄道に乗ったという人はいっぱいいるんです。ただ、宮脇さんのすごいところは、かつて「中央公論」の編集長であり、中央公論社の取締役でもあった、社会的にステイタスのある知的レベルの高い方が――というと語弊があるかもしれませんが、鉄道という趣味をやって、その市民権を得るようにしてくれたってことじゃないでしょうか。しかも面白く文章にして残してくれたという。
――鉄道趣味の「市民権」ですか。
杉山 マニアックなことに対して、昔は「ネクラ」とかいう時代もあって。それが今は「個性」になっているので、その走りじゃないですかね。