高岡で育んだフランスへの思い
木々康子氏と出会ってから、私は国内で可能な限りジャポニスム関連の書物を集め、国立西洋美術館、大阪あべのハルカス美術館、東京都美術館等で取材を重ね、ジャポニスム学会にも参加した。
調べれば調べるほど、忠正の歩みからは、明治の開国期を生きた若者の熱き生きざまが読み取れる。私はその存在に取りつかれ、資料の中だけでは飽き足らずに忠正の故郷、富山県高岡市も訪ねてみた。
ペリーが浦賀に来航した1853年(嘉永6年)10月21日、鎖国政策が解かれる1年前に忠正は現在の富山県高岡市の外科医・長崎言定、母・もとの次男として生れた。幼名を志芸二という。
当時の高岡は加賀、能登、越中の三州100万石を誇る前田藩の商工の町。江戸時代は20人ほどの武士が常駐するだけで、町人代表による自治が許されていた。それゆえ自由な活気に満ち、穀倉地帯を背負う豊かな経済の下、町人たちの文化水準も高かった。現在は富山県に属しているが、富山市を呉東と呼び、高岡市は呉西の中心としてプライドも高い。
町の中心である「一番町」に屋敷をもっていた忠正の祖先は、長崎家初代孫兵衛から長崎でオランダ流外科術を学び、「長崎先生」と呼ばれて多くの患者を集めていた。5代目となる康斎は、江戸に出てオランダ学者大槻玄沢、杉田玄白の息子・立卿の下で約半年間医学を学んだ。元は萩原姓だったが、孫兵衛の代から「長崎」を名乗ることになる。
「遠くからよおきなさった。今日は雪がなくてよかった」
私がこの町を訪ねた日、そういって穏やかな笑みを浮かべて新幹線の新高岡駅まで車で迎えにきてくれたのは、忠正の兄・元貞の曾孫に当たる長崎圭爾氏だった。長崎家としては元貞が7代目、圭爾氏は10代目になるという。忠正のことは祖父や父から話しに聞くだけだというが、その笑顔からは、祖先を訪ねる遠来の取材者を歓待してくれる暖かい気持ちが伝わってくる。
最初に連れて行ってくれたのは、加賀藩二代目前田利長の菩提寺であり、山門と法堂が国宝になっている瑞龍寺だった。
「ここが長崎家の菩提寺です。いまは墓地は雪に埋もれていて入れませんが」
訪ねたのは2018年の2月。北陸は大雪に見舞われ、福井県の国道では車が立ち往生して三日三晩帰還できなかったという報道もあった。寺の回廊の途中から見る人の身長ほどの大きな墓石は、確かに腰の高さほどの雪に埋もれて辿り着けない。けれど私がこの町を訪ねた二日間は見事に晴れて、予定通りの取材をすることができた。天の忠正の歓待の現れだろうか?
高岡において、たった20軒ほどしか檀家を持たない名刹・瑞龍寺を菩提寺とする名家に生まれた忠正は、17歳になると時の富山藩大参事(藩内最高の行政官)で、母方の伯父・林太仲に請われて養子に入る。太仲の弟はやはり明治初期にフランスに留学し、のち日本の民法を制定するボワソナードの弟子となった磯部四郎だ。法律学者、弁護士として大審院検事、衆議院議員などの要職にも就いている。
この環境と家風の中で育った忠正も、長崎でフランス語を学んだ太仲の教えを受けて、1870年(明治3年)に上京しフランス語を学び始める。翌年のちに東京大学となる大学南校に藩の貢進生(藩選抜の留学生)として進学。世の趨勢は英語とドイツ語に傾く中、林家の方針通りフランス語を学び続けた。
だが明治の開国期は、同時に倒幕の先頭に立った薩摩藩、長州藩の取り仕切る「藩閥政治」の時代でもあった。忠正のように北陸の出身者には門戸が開きにくいという現実があった。
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