義父の失脚
忠正が養子に入った林家は、前田100万石の支藩、富山前田家10万石に属する。富める高岡とは対照的に、目ぼしい産業も資源もなく経済的には逼迫していた。
林家3代目で忠正の義父となった太仲は、早くから藩政改革を訴えていた。尊皇攘夷の機運の高まりを受けて仲間の一人が功をあせり、維新の混乱の中で守旧派の国家老を惨殺。連座した太仲は処罰こそ逃れたものの、「勤学」の名目で長崎へ流された。
だがこの地こそ、太仲にとっては飛躍の地だった。時は幕末、長崎は西洋からもたらされる新知識に溢れるばかりでなく、土佐、薩摩、佐賀などから俊英たちが集まり、熱い議論を日夜交わしていた。この時代、長崎では英語でもオランダ語でもなく、フランス語が主流だった。太仲はフランス語を学び、新しい時代の息吹を体内にため込んだ。
やがて1868年(明治元年)、「王政復古の大号令」が発せられると太仲は4年ぶりに故郷に向かう。その知識と人脈から貢士(代議員)、やがて徴士(官僚)に抜擢されて、69年(明治2年)には富山県小参事として上京。翌年30歳の時には藩大参事となり藩内最高の行政官に登り詰めた。
忠正を養子としたのはこの時のこと。17歳の忠正は志芸二から改名し、富山に移り住んで廣徳館という名の藩校に入り、儒学を学び始めた。やがてこの年の10月に東京に出て、太仲の勧めで私塾でフランス語を学び始め、1871年(明治4年)から富山藩貢進生として大学南校に進む。のちに開成学校を経て東京大学となる、全国からエリートを集めた教育機関だ。
まだ学制が定まらないころのこと。忠正は時に退学を命ぜられたり学校名が変わったりしたこともあったが、寄宿舎生活をしながらフランス人ガロ、ビジョン、リブロールなどの師の下で本場のフランス語を学んだ。
だが思いがけない凶報が故郷からやってきた。30歳の大参事太仲は、藩閥政治に遅れをとった分を取り返そうと藩政改革を急ぐあまり、40歳以上の家臣を罷免し、一般農民町民を募って軍政を新設。その費用を町人層から調達しようとして非難が渦巻いた。さらに厳しい仏教弾圧を展開したことで信者から怨嗟の声があがり、ついに71年(明治4年)、失脚してしまう。このことを理由としてか忠正は県からの給費を止められ、給貸生、やがて官費生として、苦学の生活を強いられている。
この時忠正の前にはどんな未来があっただろうか。東京大学に学ぶエリートとはいえ、国家官僚の中枢ポストは薩摩、長州出身者に押さえられている。故郷に戻ろうにも義父は失脚してしまった。将来に有利な進路はどこにも見えない。だからこそ、フランス人から本場のフランス語を必死に学ぶ日々。そこにしか自分の未来をかける「切り札」は見出せなかったはずだ。
そんな時、フランス語を学ぶ仲間たちから耳寄りな噂が流れてきた。1876年(明治9年)に行われたフィラデルフィア万国博覧会が終わり、次の78年(明治11年)パリ万博に向けての準備が始まったというのだ。当然フランス語に達者な人間が重用されるはずだ。
―――これはチャンスだ。
若き忠正の心に火がついた瞬間だった。
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