皇后になられて1年、懸命に公務に臨まれてきた雅子さま。なぜその笑顔に、私たちはこんなにも心打たれ、励まされるのでしょうか。新型コロナ禍で苦しむ人たちに、いまどんなお気持ちを寄せておられるのでしょうか。矢部万紀子さん『雅子さまの笑顔~生きづらさを超えて』からの抜粋をお届けします。
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皇室という新しい道。「悔いはございません」
2019年5月1日、令和の初日。NHKは8時15分、朝ドラ「なつぞら」の終了とともに新天皇即位の儀式を生中継するニュース特番をスタートさせた。
皇居宮殿・松の間で「剣璽等承継の儀」が始まるのが10時半、「即位後朝見の儀」が始まるのは11時10分。番組は正午まで続く。となると当然、中継映像だけでは間が持たない。天皇陛下や皇后雅子さまと親しい人たちが話をしながら、番組を進める構成になっていた。
陛下の側からは学習院初等科以来の同級生、水問題の専門家である政策研究大学院大学教授。雅子さまの側は、田園調布雙葉学園で小学校から高校まで一緒だったという友人二人が登場した。そのうちの一人、土川純代さんは、かつて大手銀行の総合職として働いていたという。「皇后さまは、外務省に勤務されて」と言ってから、司会の武田真一アナウンサーがそう土川さんの職歴を紹介した。
「女性がバリバリ働く時代の幕開けでしたよね。働くことについて、どんなふうに語り合いましたか?」という武田アナの問いかけに、土川さんはこう答えた。
「お互いに均等法施行後の一期生として一緒にキャリアを積んで、社会貢献できるようにとよく語り合っていました」
雅子さまを考える上で絶対に欠かせないのが均等法、正式には男女雇用機会均等法だ。1986年(昭和61年)に施行され、雅子さまは翌1987年(昭和62年)に外務省に入省された。施行から1990年(平成2年)までの間に就職した総合職女性を「均等法第一世代」と呼ぶことが多く、土川さんはそれを「一期生」と表現したのだと思う。
ちなみに私は1983年(昭和58年)に新聞社に就職したので、「均等法以前入社」組だ。もう一つちなみに「社会貢献できるように」などと友人と語り合ったことは、一度もない。自分のダメさを棚に上げて解説させていただくなら、均等法というものが働く女性の意識を大きく変えたと思う。
均等法以前入社の私は、会社への期待値がある意味で低いところがあった。大学の「就職室」には求人票が壁いっぱいに貼られていたが、ほぼすべてに「男子若干名」と書かれていた。それが当たり前で、おかしいと憤るより数少ない入社試験のチャンスをものにせねばと思っていた。だから入社してからも「入れていただけてありがたい」と会社に思う気持ちもあったし、自分は「変わり種」として入社したのであって、メインストリームを歩く者ではないと思っていた。書きながら自分でも情けなくなるが、こんな考えで入社した人間が「社会貢献しよう」という発想など持てるはずがない。
その点、第一世代は違った。後輩を見て自分との違いをしみじみ実感したが、皆一様に使命感に燃えて入社してきた。張り切っていた。メインストリームを歩く者として会社に入ったのだ、という自負があった。そのうちの多くがそう時を経ず、「男性ファースト」という会社の現実を知ることになる。土川さんも今はファッション関係のメディアで働いていると語っていたから、大手銀行でそういう体験をして転職をしたのかもしれない。それはさておき、入社時点での意欲の表れが、雅子さまと土川さんが語ったという「社会貢献」という言葉だったと思う。
しかも、と言っていいかどうかわからないが、雅子さまはバリキャリだった。もしかしたら「バリキャリ」はもう死語かもしれないが、ハーバード大→東大→外務省と絵に描いたような「バリバリのキャリアウーマン」だった雅子さまが1993年(平成5年)、皇太子さま(当時)と結婚された。だから婚約が決まった皇室会議後の記者会見で、外交官という職業を捨てることに後悔はないかという質問が出たのは当然のことだった。
雅子さまは「6年近く勤めた外務省を去ることに、寂しさを感じないと申しましたら、うそになると思います」と答えた。やりがいのある仕事をし、尊敬すべき先輩や同僚にも恵まれ、とても充実した勤務だったと振り返った後に、こう続けた。
「でも昨年の秋、本当にいろいろと考えた結果、今、私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないか、と考えましたので、決心したわけです。今、悔いはございません」
新しい道で自分を役立てる。土川さんと語り合った「社会に貢献する」という旗は降ろさない。ただ、歩く道を変える。この時の雅子さまの気持ちは、「嫁ぐ」というより「転職」だったと思う。雅子さまは変わらず、使命に燃えていた。
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