●神様は天上にいる? 心のなかにいる?
――『先生と私』のなかでは、何箇所か佐藤さんが涙をこぼすシーンが描かれています。そして、そのいずれのシーンでもキリスト教の神様が関わっていました。優少年の日常にとって、神様の存在はかなり大きかったのでしょうか。
佐藤 少年のときも今も、神様はいると思っていますよ。でも、問題は神様はどこにいるのか、ということなんです。
――天の上ではないんですか?
佐藤 18世紀以降のプロテスタントはそうは考えません。それ以前の古プロテスタントでは、神は天上にいると信じられてきました。しかしそれだと、ケプラー以降の天体観や宇宙観と矛盾してしまう。簡単に言うと、飛行機で天にのぼっても、神様には会えないわけです。だから、矛盾しないところに神様の場所を置かなければならなくなります。その転換を神学的におこなったのが18世紀の神学者シュライエルマッハーです。
シュライエルマッハーはカント、ヘーゲルと並ぶくらい重要な人物で、「近代プロテスタント神学の父」とも称されています。彼は、宗教の本質は直観と感情だと言った。つまり、神様は心のなかにいると考えたんです。
――シュライエルマッハーによって、神様の場所は天から心へと移ったわけですか。
佐藤 そうです。でも、神様が心にいるという考えは非常に危ういんですよ。なぜかというと、神様が心にいるとなると、自分の主観的な心理作用と神様を区別できなくなってしまうからです。この延長上に、神様なんて自分の心の作用にすぎないという無神論も出てくるんです。
この心の神様という問題を、日本で最初に正面から考えた人は夏目漱石だと思います。とりわけ『こころ』がその問題を扱っています。
下宿先のお嬢さんのことが好きだとKに告白された「先生」は、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」とかつてKに言われた言葉を繰り返して、Kにダメージを与えるわけですよね。
「先生」のほうは、Kの告白を聞いてからお嬢さんを欲しくなり、「娘さんをください」と抜け駆けをする。そして、Kは自殺してしまう。
結婚しても「先生」は罪の意識を抱えてずっと悩んでいきますが、最後に明治の時代とともに自分が自殺するという形で処理をする。
キリスト教の神様は自殺を禁止しています。自殺はなぜいけないと言えば、いけないからいけないというトートロジーになります。でも、Kにも「先生」にも超越的な神はいないんですね。その意味で、心のなかに神を移動してしまった近代人たちの行き詰まりを漱石はすごく上手に描いています。
神様の場所を心のなかにあると考えると行き詰まってしまう。そうすると、もう一度上を見なければならなくなりますよね。
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