感傷と共感のインフルエンサー小説──燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』との類似と相違
Twitterで多数のフォロワーを擁する「インフルエンサー」による小説の先例として燃え殻『ボクたちは大人になれなかった』(新潮社)が挙げられる。燃え殻はカツセマサヒコとは違いWEBライターのキャリアは持たない「インターネットの人」だが、共感を誘う「エモいツイート」により人気を獲得したという経緯に類似点がある。
類似点はそれだけじゃない。『明け方の若者たち』と『ボクたちはみんな大人になれなかった』の両者は、「恋愛を軸とした過去の回想」という枠組みや、特定の時代をその当時を象徴する固有名詞を惜しみなく使って構築する手つき、そして主人公の造詣が等身大の著者を強く負っている(と読める)点でよく似た作品だと言える。
この類似について、カツセも燃え殻も書き手としてのキャラクターを「共感を元にしたツイート」によって獲得したという経緯に由来しているだろうが、どれだけ似ているか/どれだけ違うのかを細かく検討するために、それぞれの著作のテキスト分析を行った(燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』ではcakesに掲載されているWEB版を用いた)。
以上の図を見ると、両者では「彼女」という単語が大きな存在感を持っていることがわかる。そしてこの「彼女」という単語に注目すると大きな違いも浮き上がってくる。それは、『ボクたちはみんな大人になれなかった』では「彼女」以上に語り手の一人称である「ボク」が多く使用されているのに対し、『明け方の恋人たち』では語り手の一人称である単語「僕」の存在感が希薄だということだ。
これを踏まえてもう一度『明け方の若者たち』の内容に戻ると、この小説の語り手「僕」がどのように過去の自分を見ているかがより具体的にわかってくる。この小説には、語り手の意識はやはり自分自身の心の内側に向かっているものの、それを自力で行えない「弱さ」がある。『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、過去の感傷に強く揺さぶられながらも語り手「ボク」のナイーブさをアイデンティティに変えるような強さを感じたが、自己の強さ/弱さの観点から両作品は正反対の印象を確かに受けた。
記憶のなかではっきり存在しているのは「彼女」をはじめとするみずからの外側にあるもので、そのなかに「僕」がいるということや、「僕」が感じたり考えたりするものが存在している。「イチローにも本田圭佑にもなれなかった」という何者でもない「僕」というアイデンティティの頼りなさゆえに、語り手でありながら物語の主導権を握れずにいる。それはまさにカツセがこの小説に込めた「こんなハズじゃなかった人生」の構造だ。恋愛や社会というシステムに依存せざるを得ない人生があり、しかし「僕」はそれを否定したいわけじゃない。他者なしで生きられない世界ならば、寄り添ってくれる他者と共にそんな世界を肯定するのを希求する衝動が、この小説に描かれる「恋愛」だ。
その共感はだれのもの?
WEBライティングを主戦場として活躍してきた作家・カツセマサヒコの小説は、著者自身がSNSやWEBメディアを通して獲得してきたブランドが強く反映された作品だ。Twitterで得意としていた恋愛のなかにある”エモさ”を軸としながら、後半になるにつれて夢のような時間が現実の色を強く帯びていく文芸的な仕掛けが使用されている。
SNSの爆発的な流行により、書き手と読者の距離は革命的に縮められた。その構造変化により、カツセマサヒコだけでなく2010年代には「共感」をキーワードとしたWEBマーケティングが広く利用され、広告における「物語」の存在感が強くなった。共感の伝搬速度や規模から逆算したターゲット設定や物語の創造もWEBライターにとって重要な技術となり、かつて以上に「物語」の需要が増加した。
ただ、もちろんそれは、カツセマサヒコや燃え殻といったこの文章で例示した作者たちがそうした技法を駆使して「共感の物語」を書いたということに一致しない。
書き手という個体は、それぞれの自由意志として小説を書くにすぎない。その一方で書かれた小説は不可避的に市場に組み込まれ、その力学に曝されることになる。市場における反応は書かれた作品と作者にフィードバックされ、個人の自由意志と市場構造が相補的に存在することによって、書かれた小説が「何者だったのか」が位置付けられる。
それを踏まえて一人の書き手としてぼく自身はこんなことをかんじる。個と全体の関係性として「エモさ」や「共感」が一般化されると、果たしてそれが本当にじぶんの自由意志として生まれたものなのか突然不安になる瞬間がある。じぶんの信じるものを確信を持って書いたはずなのに、もしかしたらそれはマーケットというシステムに書かされてしまったものかもしれない。
特にカツセマサヒコがインターネットで台頭してからは、noteなどのブログサービスで共感を軸とした「エモい自伝」と読みうる文章を投稿するWEBライターや文章を職業にしたい若い書き手が増えた。そうした文章が次々とタイムラインを流れていく様子を見ると、「共感」というミームが複製されるにつれ、その唯一性を失っていくような感覚にとらわれる。
共感について、詩人・最果タヒが詩集『空が分裂する』のあとがきでこのように指摘している。
常に思っていたことがある。
わかりあうことは、気持ちが悪い。そんなこと。常に、本当に常に、思っていた。青春時代にみんなで、ナルシストとか、イタイとか、不思議ちゃんとか、中二病とか、言い合って、個性的にならないように毎日牽制しあっている、そういうのを見て、ああ、こうやって平凡な人間は量産されていくのかと考えたりもしていた。みんなと違う、自分だけの特徴を、恥ずかしいものとして隠していくことが彼らの処世術で、平均的でみんなと同じ人が偉いんだと当たり前に考えていて。ばかみたいだ。それは偉くなったんじゃなくて、「無」になっただけだ。誰にも見えなくなったから、嘲笑われなくなっただけだよ。そう、私は言いたかった。なんにもおもしろくない、これじゃあ、きみたちがこんなにたくさん教室にいる意味がない、きみの気持ちをだれかが全部共感できるなら、きみなんていなくてもいいってことだ。
──最果タヒ『空が分裂する』(新潮社)
ぼくはこの文章を、カツセマサヒコの小説を批判するために挙げたのではない。
これはカツセが次以降に書いていく小説への可能性だとおもう。カツセはデビュー作を「インターネットの人」として書くことを決意した。そういう意味では『明け方の若者たち』はインターネット文芸の文脈に位置付けられるものになるだろう。
しかし、それはかれの文学のはじまりに過ぎない。カツセマサヒコは共感を越え、「24秒の文学」の外へ踏み出していく。
【参考】
・オリバー・ラケット/マイケル・ケーシー著,森内薫訳『ソーシャルメディアの生態系』(東洋経済新報社), 2019年
・『カツセマサヒコの終わりなき旅|独立という選択。“メディア”として生きる覚悟』(キャリアハック), https://careerhack.en-japan.com/report/detail/789 , 2017年
・『カツセマサヒコが語る、初の長編小説への想い「この小説では誰も成長していない。でも、それでもいいんじゃないかと思えた」』(Real Sound), https://realsound.jp/book/2020/06/post-564831.html , 2020年
・『ボクたちはみんな大人になれなかった(WEB版)』 , 燃え殻 , https://cakes.mu/series/3635 , 2016年
・『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社 新潮文庫), 燃え殻 , 2018年
・『空が分裂する』(新潮社 新潮文庫nex), 2015年
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
- バックナンバー
-
- 映画のエンドロールが終わっても登場人物の...
- ストーリーのある会社に“彼女”には勤めて...
- #8 下北沢は湿ったアスファルトの上で静...
- #7「何者でもないうちだけだよ、何しても...
- #6 ヴィレッジヴァンガードは待ち合わせ...
- #5 その笑顔が嘘じゃないなら
- #4 クジラ公園で、飲みかけのハイボール...
- #3 パーティをぬけだそう!
- #2 彼女の財布から溢れたレシートは下着...
- #1「勝ち組」は明大前の沖縄料理屋に集う
- 『明け方の若者たち』文庫カバーを解禁
- 『明け方の若者たち』文庫化決定!
- 【書評】終わりない「マジックアワー」の中...
- Twitterの140文字と、小説の10...
- 特製しおりをプレゼントする、インスタキャ...
- ノーコンプレックスがコンプレックス。凡人...
- 【書評】変わっていく時間の中に描かれる永...
- 【書評】極めて刺激的で鮮烈な文学世界だ!
- 【書評】「24秒の文学」の外へ──WEB...
- 【書評】夜の感覚に潜むミステリーとしての...
- もっと見る