男が作った青年の初めての書籍、『誰かのクラクション』(角川書店刊)は、発売が1年近く遅れたものの、約束通り、彼の二〇歳の誕生日の前に出版された。書き下ろすことができなかったため、窮余の策で当時地方のラジオ局で青年がもっていた番組で読んでいた自作のストーリーの原稿をそのまま載せた。
男はこの1冊によって、「本」の制度を壊したかった。尾崎豊という感性を生かして、「読む本」ではなく「感じる本」を作りたかった。左開きにしたり、訳の分からない記号や英語や数字を入れたりしながら、男は「感じる本」を作った。『誰かのクラクション』は三〇万部を売るベストセラーとなった。
「でもね、この本が出て2年以上、彼と会わなかったんですよ。出てからすぐに彼はアメリカに行っちゃったんです。露出を全くしないままにカリスマになろうとしていた時期で、忙しかったのもあるんだろうけど、その頃はまだ俺も、彼がどんな生活をしているか詳しく知らなかったからね。本が出来上がったときに手渡して、次の作品も含めて今度ゆっくり話そう、と言ったきり、アメリカヘ行く1週間前に一度事務所で会ったくらいで、それ以降ずーっと会ってなかったんです。音信不通になって、いつ日本へ戻って来たかも分からない状態だった。次第に、他の仕事で忙しくなって彼のことを思い出すことも少なくなっていた……。尾崎豊のイメージが鮮明に蘇るのは、逮捕、なんですよ。覚醒剤取締法違反で逮捕されたというニュースで、尾崎を鮮やかに思い出すわけ。その一年何ヶ月後に刑を終えて、戻って来た姿をテレビや雑誌なんかで見ながらちょっとは気にしていたんだけど、それでも連絡をとることもなく、音信不通の時間が続いていたんです。彼は結婚し、事務所もやめ、徒手空拳になっていて、でも少しは貯めていたお金の残りがあったのか、奥さんとふたりで新宿のヒルトンホテルに泊っていたんだよね。そのホテルのスポーツクラブで劇的な再会をするわけ。汗びっしょりの尾崎と1時間くらい、床に座って話し続けたよ。その時に彼が吐いたのが<見城さん、どうしても僕は復活したい>という台詞だった。<僕は何もかも失くした>と。所属のレコード会社も、事務所も金もない、でもどうしても、もう一度ステージに立ちたいと。アルバムを出したいとうわ言のように呟きつづけたんですよ……」