青年は、死の3週間ほど前に一度、男に電話をかけている。明け方朝5時すぎに男の部屋の電話が鳴った。男は電話をとった。決裂してるにもかかわらず、青年は男にこう言い放ってくる。
「見城さん、レコード会社を作ってください。見城さんだったら作れるでしょ。僕は今のレコード会社が信じられない」と。
男は、青年がレコード会社と大もめにもめていたことを知っていた。しかしもう二度と付き合わないと心に決めていたので、「何言ってるんだ。今さら俺に電話かけてきて何言ってるんだ」と突き放して電話を切った。その3週間後に青年は死んだ。もう終わってしまったことだ。しかし、男のなかに後悔の気持ちが残る。なぜあのとき、「今から来いよ」と言ってやれなかったのかと。
「彼自身、自分は長く生きられないと感じていたと思う。だから人の一〇倍の早さで生きるように、感情も行動もあまりにも性急で、だから俺のワガママを許してくれ、俺のデタラメさを許してくれというふうに叫んでいたように今となっては思う……。酒は浴びるように飲んでいた。もう抑制がきかないんだよね。正体をなくすくらい飲むんですよ。元の事務所の社長を刺しに行くと言って車に乗って出かけて、その人が居るバーのドアに着いた瞬間に、ナイフを持ったまま気絶しちゃうんだからね。フーッと。小心者なのよ、臆病なのよ。あんなヒリついていたヤツ、見たことないよ。だから尾崎と関わった人間って、どこかで自分を狂わしてもいくわけですよね。自分が狂わない限り、尾崎とは付き合えないんですよ。決裂したその音楽プロデューサーが<尾崎が死んだ>という知らせを俺によこしたときに、最初に言った台詞が<見城さん、悲しいけどなんかホッとしましたね>だったからね。でも、それは全然非難されるべきことではなくて、全身全霊を尾崎に捧げてきた俺と彼にとっては実感なんだよ。二〇いくつかの若者が、<僕を安全パイにしないでくださいね、僕はいつも見城さんの不安をかきたてますよ>なんて言うんだよ。彼が俺に突きつけてきたことって、その時は辛くて辛くてしょうがなくて、逃げたくて逃げたくてしょうがなかったことだけど、すごくいい試練だった。その試練がいまの俺の血となり肉となってると思う。彼は常に人に踏絵を要求するんだから。それはたったひとつですよ。<あなたは尾崎豊ひとりだけを愛してくれますか>という試練を常に問うんですよ。辛いよ。彼の言った台詞や彼のとっている行動によってこっちが突然不安な感情に襲われて、何もできなくなることはしょっちゅうだった。彼が突きつけてくる踏絵はいつもその人にとってのギリギリの選択だったからね。たったひとつ、僕だけを愛してくださいという単純なことから発しているにもかかわらず、相手の人生のすべてを問うようなことが起こるのよ。出発点はそれだけだけれど、形を変えていろんな踏絵を踏ませるわけだよね、彼が課してくる試練というのは、結構、本質を突いた人生の試練なんですよ。七転八倒しなければ、そして脂汗を流し涙を流しながらやらなければ、仕事は進まないということを俺は尾崎との関わりの日々から学んだ。俺はそれを、内臓で学んだね。そして自分が才能を信じた者との道行きを紡いていくこととは、死ぬほど辛いものだということを身をもって知った。ひとつ間違えれば俺が死んでいたよ。尾崎という男はそういうヤツだった……」
青年には、生きてゆく限り、救いはなかった。それは同時に男の問題でもあり、ファンの問題でもあった。ファンは青年の人生に、生きることは救いがないという自らの叫びを重ね合わせた。青年の死後もアルバムは売れつづけている。青年の詞や曲を、ただその表面だけを見て、アルバムや本を買いつづけているわけではない。新たに生まれてくる世代が、いまなお何故、青年の残したものを買っていくのか、死後も様々なトラブルに巻き込まれている青年のものを、何故買い求めるのか。それは、「救いのない自分を誰もがある時期、必ず身をもって経験するからだ」と男は言い切る。「だから尾崎は永遠なんだ。人が生きていく限り、尾崎豊は永遠なんだ」と。男にとって、のたうち回ったぶん「尾崎豊」のビジネス面でのあがりはとてつもなくハイリターンだった。『月刊カドカワ』が最終的に実売15万部までいったのは明らかに青年の力が作用している。単行本は5冊すべてが三〇万部を超えた。『誰かのクラクション』『普通の愛』『白紙の散乱』『黄昏ゆく街で』『堕天使達のレクイエム』。もう1冊、『フリーズムーン』という写真集も異常な売り上げを記録した。しかし男は苦しかったけれど、数字以上のものを青年との関わりによって得たと思っている。
「何もないときは、のたうち回ってでも仕事をしなきゃいけないわけで、ところが歳をとったり地位が上がってくると、経験や実績が付着して来たり、それから何々賞をとらせたのはアイツだ、あのベストセラーもそうだって話になってくると、別にのたうち回らなくてもよくなるわけで……。のたうち回るのは苦しくて面倒くさいことだから。でも、それに慣れてきたらどんどん腐り始めていくんだよね。俺はその頃36、7になっていたから、いっぱい付着してきていたわけだよね、アカが、ゴミが、アブラが、そして自惚れが。尾崎にのたうち回されたことによって、それが完全にとれたと思う。角川をやめてこの会社を作ったのも、そこに原点があると思うよ……」
見城徹という傘を失くした結果、青年は子供のように駄々を捏ねながら死海へと旅立ち、尾崎豊という土砂降りの雨を耐え忍んだ男は、喪失感を抱えながら、まもなく賛肉を削ぎ落として新しい航海の旅に出た。
もしも尾崎豊が生きていたならば、という推測はここでは一切成り立たない。