読者の食欲を刺激するシチュエーション
その二人が『野武士のグルメ』で原作者と作画者として初めて相まみえた。〈ぼくは原作なので、谷口さんの絵ありきだし、あるいは泉晴紀、水沢悦子さんありきなんです。絵に合わせて話は作っています〉(「ユリイカ」2011年9月号)と述べる久住だが、『野武士のグルメ』はエッセイであり、マンガ化を前提として書かれたものではない。未知の飲食店に一人で入るときのためらいやドキドキ、店内の空気や店主の態度への戸惑い、料理を食べた際の心の動きなどを淡々と綴っている。対して、土山のこれまでの作品は、食をめぐる勝負をケレン味たっぷりに描いたものが多かった。傾いた飲食店の再建を請け負う“鬼コーチ”が主人公の『食キング』や競技としての大食い対決を描いた『喰いしん坊!』『大食い甲子園』などは一種のスポ根ものとも言える。
はたしてうまく噛み合うのか。エッセイをどうやってマンガにするのか――。そんな懸念はしかし、いい意味で裏切られた。
土山は、エッセイに綴られた店の空気感や内心の声を、ほぼ忠実に再現することに成功している。ただ、原作とひとつ大きく違うのは、35年勤めた会社を定年退職した男を主人公に据えたこと。平日の昼間から公園の茶店でビールが飲める自由を得た我が身を浪人に喩え、〈いや……浪人だとイメージが悪いな……〉と思い直して〈そうだ! 野武士がいい!!〉と一人悦に入る。原作で言う野武士とは、腹が減ったらそこらにある店にためらいなく堂々と入り、注文も即決できるような豪胆な人物のことで、そういう男になりたいという憧れを込めて「野武士のグルメ」なのだが、そのニュアンスはマンガ版にはあまりない。
それでも、優柔不断に悩みつつ時に失敗しながらも一人飯の自由を楽しむ久住テイストは存分に発揮されている。もちろん料理描写、食べるシーンはお手のもの。料理そのものをうまそうに描くのは当然として、さらに見事なのは食べっぷりだ。『孤独のグルメ』の井之頭五郎と違って、主人公は大食漢ではない。年齢のせいもあり、若い頃より食べられなくなってもいる。その分、一品一品を味わいながら食べる口元や表情から喜びがあふれる。〈食って、シチュエーションでしょ〉(前出「ユリイカ」)という久住の言葉どおり、そこで描かれているのはシチュエーションなのだ。
刑務所内で受刑者たちが正月のおせち料理を賭けて〈旨いモン話〉で勝負する『極道めし』も、要はシチュエーション勝負である。B級な料理でも、シチュエーション次第でどんなごちそうよりも心に残る思い出となる。そこに共感するからこそ、受刑者たちのノドが鳴り、読者の食欲を刺激するのだ。
〈食べ物の紹介とかなら、どの漫画にもあると思うんですよ。でも自分の作品の場合は「食べ方」にこだわりを持って描いているので、例えば、ラーメンを食べるシーンがあった時は、読み終わった後「ちょっと、今日ラーメンを食べてみたいな」という気分になってもらえたらいいですね。描く題材もフランス料理みたいなものではなく、誰もが知っているモノを描いていきたいです〉(前出・日本漫画学院web)と語る土山の食に対するスタンスは、久住のそれとも一致する。
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