食べるのは好き、作るのも嫌いじゃない。でも、疲れたナァ……。という日はありませんか? そんなあなたのかわりに“簡単に食べられる、美味しい作り置きご飯”を作ってくれるのが、本作のシェフ桃子とアシスタント季実。京都のお弁当屋さんを舞台に人気を博した「ちどり亭」シリーズの著者、十三湊さんの人情料理小説がいよいよ始動します。美味しそうなご飯に心はほくほく、桃子と季実の過去に涙がほろり、最後はお腹の底から元気になる『出張料理みなづき 情熱のポモドーロ』。発売を記念して前日譚を特別公開します!
前日譚 兆しの朝
☆
朝起きられない。
それだけですでに、社会から振り落とされた気分になる。
寝つけないままに迎えた午前四時ごろから絶望の気配が漂いはじめ、気を失ったかと思ったらすでに午後。予想通りの脱落に打ちひしがれる。
その日は、目覚めたら午前五時過ぎだった。
確かに、朝、起きた。
けれども、日付がひとつ飛んでいる。
二日間、不眠でぼんやりしていたあと、二十時間近くこんこんと眠り続け、わたしの一日は、眠りのうちに消えたのだった。
学生時代、自分が毎朝元気に起きて、部活の朝練に向かっていたということが、すでに信じられない。
起きていたところで、無職の身にはするべきこともない。でも、世間のリズムに合わせて生活できない時点で、社会復帰の望み薄。果てしなく気分が落ち込んでくる。
「季実(きみ)ちゃん?」
底冷えのする下宿屋の食堂で、ダウンコートを着込み、水筒に入った梅昆布茶を飲んでいたら、足音が近づいてきた。桃子(ももこ)さんが顔を見せる。
いつも後ろで結っている黒髪をおろし、パジャマの上にフリースを着ていた。
「……ごめんなさい、起こしちゃった?」
わたしは慌てて訊く。
空き部屋を一つ隔てているとはいえ、同じ一階に住んでいる。大きな音を立てないように注意していたのだけど。
「ううん。いつもこれくらいの時間に起きるの。季実ちゃんも、いま起きたとこ?」
「うん……。ごめんなさい、またごはん食べられなかった。ずっと寝てて」
わたしは身を縮めた。
大家であるおばあちゃんとわたしの食事を作っているのは、桃子さんだ。
ここへやってきてからもうすぐ二週間。その間、彼女の作ったものをできたての状態で食べることができたのは、数回のみ。ごはんの時間は決まっていて、「タイミングが合わなかったら自分で温めて食べてね」と最初に言ってくれていたけれど、やはり申し訳ない。
「季実ちゃんの分は、冷凍庫にストックしてるから、別にいいの。それより、季実ちゃん、元気だったら、今から買い物に行かない?」
わたしは窓の外に目をやる。
「まだ真っ暗だよ」
「もうすぐ明るくなるわよ。二十四時間やってるスーパーがあるから、そこへ行きましょう」
☆
桃子さんは、わたしより四つ歳上の二十八歳。
おばあちゃんの経営する古い下宿屋の店子。職業・出張料理人。バツイチ。三年前に関西から東京にやってきた。
わたしが知っているのはそれくらい。
別に彼女が秘密主義なわけじゃない。ただ、今のわたしの生活リズムがめちゃくちゃで、彼女と顔を合わせる機会があまりないのだった。
それでも、なんとなく彼女を信頼している。
ものが満足に食べられなくなっていたわたしに、「おいしい」を取り戻してくれたから。クールでそっけないおばあちゃんも、彼女を気に入っているようだった。
「寒い!」
静かに門を出てから、桃子さんが身を震わせた。
顔を洗ったときに濡れた髪が、冷えてすうすうする。
「寒いね。でも、ほんとに明るくなってきた」
わたしは空を見た。東のほうがうっすら白みはじめている。
日の出前でも、太陽の光は地上に漏れ出しているのだ。
「結構人いるね」
辺りを見回し、わたしは言う。
コンビニの白い明かりのもとで働く人だけでなく、車で走る人、ちらほらと歩道を歩く人の姿も見える。
歩いているうちに、不思議と気分が高揚してきた。
見慣れない早朝の街の非日常感も、あった。でもそれ以上に、ちょっとした買い物であっても、朝から活動することができたのがうれしいのだ。それだけで、一日の半分が成功したような感じがする。
桃子さんはスーパーでカマンベールチーズとブロックベーコンを買った。
「寒い!」
スーパーから出て、桃子さんがまた身を震わせる。
「二月って、詐欺だよね。立春とか言ってるのに、一年でいちばん寒いの、二月なんだよね」
同じように身をすくめて、わたしは言った。
「本当ね。でも、この寒さがずーっと続く気がするのに、毎年、二月の終わりから急に暖かくなって春が来るでしょう。不思議」
「春が近いとか、信じられない」
「ね。でも、毎日必ず朝は来るし、毎年ちゃんと春は来る」
東の空は明るさを増している。
桃子さんの横顔が、さっきよりもはっきり見える。
どこかの庭に木があるのか、うっすらと梅の匂いがする。
☆
「ホットケーキ、作ったことある?」
帰宅して手を洗いながら、桃子さんが尋ねた。
「ひっくり返しただけ……母がホットプレートで焼いたのを」
「じゃあ、今日は一緒に最初から作らない?」
素直にうなずいた。
寝つけない夜に、桃子さんの指示で何度かごはんを炊いた。その経験からわかっていた。
自分から何かをする気力がわいてこない今は、受け身の姿勢であっても何かをしたほうがいいのだ。
「まずは冷蔵庫から、卵二つ、小麦粉、ベーキングパウダーを出して」
食堂のキッチンスペースに立ち、砂糖の瓶を手にした桃子さんが言った。
「ベーキングパウダーってどれ?」
大きな冷蔵庫には、米や海苔、使いかけの粉類や調味料まで入っている。
「赤い缶の。ケーキを膨らませるためのものよ。あとね、ヨーグルトが入ったボウルがあるでしょう。それも出して」
ボウルにざる、キッチンペーパーを重ねた中に、白い塊が詰まっている。
「水切りヨーグルトは、マヨネーズの代わりにポテトサラダに使うの。これはホエイ。ついでだから、牛乳の代わりに使うわ」
桃子さんがボウルの中を見せる。
薄い黄緑色の液体が見える。カップ入りのヨーグルトを食べるとき、こういう液体がヨーグルトの上にたまっているのを見たことがあった。