ホエイの入ったボウルに卵を割り入れて混ぜたら、残りの材料すべてを入れて再び混ぜる。
「フライパンを温めている間に布巾を濡らして絞って」
熱したフライパンは、面倒でも、一度濡らした布巾の上に置いて冷まし、そこにタネを落とす。タネを入れたら、再びフライパンをコンロに戻す。しばらくしたらひっくり返してまた同じようにする――
桃子さんの指示は決してせかすようなものではなかった。でも、ふだん料理をしないわたしは、指示を理解するまでに数秒が必要で、焦ってしまう。
「大丈夫、ちょっと遅くなったくらいで焦げないから。ほら、きれいな焼き色」
裏返したホットケーキを見て、桃子さんが言う。
きつね色のホットケーキは、ホエイの効果なのかずいぶん膨らんでいる。
確かに表面はつるつるとして、きれいだった。なんとなく嬉しい。
フライパンを熱した後で布巾の上に移す、タネを入れる、焼く、また移して裏返す――
三枚めになると、もういちいち手順を思い出したり唱えたりする必要はなくなった。
目の前のホットケーキだけに集中する。
こなすべきタスクもないのに、起きているあいだ常に自分を追い立てている焦り。早く再就職先を探さなきゃと思っているのに、それをする気力も体力もない、というところから来る漠然とした不安。そこから切り離されたのを感じる。
わたしが黙々と焼いている間、桃子さんは包丁でベーコンを切り、丸いカマンベールチーズを水平に三等分した。
何を作ってるのかな……と横目で見ていたら、新しく焼きはじめた生地の上に、いきなり桃子さんがチーズを埋め込んだ。
「ええっ」
「ベーコンものせちゃう」
桃子さんは中央のチーズに重ねるようにスライスしたベーコンを置いてしまう。
バターとメープルシロップで食べるものだとばかり思っていた。
「味付けは!?」
「ふつうにメープルシロップかはちみつ」
「えええ……ベーコンなのに?」
「甘いものとしょっぱいものの組み合わせはおいしいの。アメリカンドッグだってソーセージとホットケーキ生地の組み合わせじゃない」
「確かにアメリカンドッグはおいしい……」
部活の帰りによくコンビニで買って食べたそれを思い出す。ほんのり甘い、ふんわりした生地の中に隠れたソーセージの旨味と塩気。ケチャップ自体も甘じょっぱい。
「これは全部中に埋めちゃって。フライパンにくっついちゃうから」
桃子さんが、三等分にスライスしたカマンベールチーズの真ん中を指さす。
言われるままに五枚めのホットケーキを焼いているところへ、おばあちゃんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
カウンター越しに、挨拶を返す。
「おはようございます」
「朝から賑やかなことだね」
「日が昇る前に、一緒に買い物にも行ったんです」
桃子さんの言葉に相づちを打ちながら、おばあちゃんは、ダイニングチェアに腰掛けた。
おばあちゃんと会うのも三日ぶりだった。でも彼女は「久しぶりだね」とか「今日は起きたのか」とか、わたしがこの場にいることについて何も言わない。今日はいる、ということをそのまま受け入れている。
たぶん両親のもとにいたら、お母さんはわたしを励まそうとして大げさに喜び、「この調子でいけば大丈夫!」と言い出したことだろう。
ここへ来て正解だった、と思った。
家族のフォローがないぶん、部屋は荒れているし、洗濯物もたまっているけれど。
「ホットケーキ、初めて焼いた」
テーブルにお皿を運んで、わたしはおばあちゃんに言った。
ホットケーキは二種類。プレーンタイプとチーズ&ベーコン入り。桃子さんがのせた、ベビーリーフとバナナにナッツを散らしたサラダが彩りを添えている。
「きれいな焼き色だよ」
わたしに向かって小さく笑顔を作り、けれどもおばあちゃんは飲みものを持ってきた桃子さんに向かって顔をしかめた。
「ごはんと甘いものは分けておくれ」
ホットケーキにベーコンとチーズが埋まっていること、サラダにバナナが入っていることに、違和感を抱いたらしい。
「すみれさんたら、そろそろわたしのことを信頼してくれなくちゃ。わたしの用意するものは、みーんな! おいしい!」
朗らかに言って、桃子さんがコーヒー入りのマグカップを置く。
いただきます、の挨拶を交わして口にしたホットケーキは、軽い。表面はかすかにさっくりしていて、中はふんわりしつつも、もちもちとした食感。溶け出したチーズとベーコンの塩気が、甘いメープルシロップと不思議と合った。ベーコンの脂がほんのり甘い生地にじんわりとしみ出して、なんだか背徳的。
もう一枚のプレーンタイプは、メープルシロップとバターで。こちらは定番の安定感。ホエイの酸味も、和らいでかすかにわかる程度。
「ベーコンとチーズ、おいしい……サラダと一緒に食べられるのもいいね」
わたしが言うと、桃子さんは顔をほころばせた。
「そうでしょう、そうでしょう。おいしいでしょう、ねっ、すみれさん!」
桃子さんが、おいしいと言わせようとする。
おばあちゃんは顔をそむけて知らんぷりをしているけれど、チーズとベーコン入りのホットケーキはもう半分なくなっている。
朝日が窓から差し込み、食堂の中は明るい。
ホットケーキの生地からしみ出してくる、メープルシロップの強烈な甘み。
まあるいホットケーキは、あたたかで柔らかな幸福の象徴。
特に実体験があるわけじゃないのに、いつの間にかそんなイメージがすり込まれている。
わたしたちは、食べものそのものだけでなく、イメージも食べている。野菜をたくさん食べると、いいことをした気分になるのも、そのせいだ。
幸福のイメージを摂取したせいか、炭水化物のもたらすエネルギーのせいか、十分すぎるほど寝て体が修繕されたのか。ほんの小さな意欲が、胸に宿った。
「洗濯機、先に使っていい?」
桃子さんに尋ねた。
「もちろん。いい天気になりそうだものね。わたしはお布団も干すわ」
「……おばあちゃんの布団も干そうか?」
わたしは尋ねる。ようやく、人のことまで考える余裕が出てきたのだった。
おばあちゃんがくちびるの右端を上げる。
「じゃあ、頼むよ。私は出かけるから」
出張料理の仕事を手伝うようになるのは、まだ先のこと。でも、このときすでに回復の兆しはあったのだ。
〈了〉