町奉行・忠相が呼び出した遠縁の少年・兵庫は青ざめた様子で…
八年前、紀州藩主だった吉宗は、格上の尾張を差し置いて八代将軍を襲職した。そのとき普請奉行を務めていた忠相は、代替わりに伴って屋敷地の引き渡しが増え、忙しく江戸の町を歩き回っていた。引き渡しには各々の境界を杭の一本に至るまで検めて書状に記さねばならなかったが、およそ一年のあいだに百件余りをこなした。
ほかにも常の御役として掘割の直しや上水の補修があったので、明くる年に町奉行に任じられたときには、忠相は天秤棒を担ぐ振り売りたちのように江戸の町に詳しくなっていた。それですぐ町火消を作ることに取りかかった。
これまで火消といえば、建物を壊す武具を携えて大勢で城下を歩くことから武士にしか許されていなかった。大名屋敷はどれも瓦葺きで少々の火の粉には持ちこたえるが、町方の長屋は熱風を浴びただけで燃え上がる。だというのに町には火が出ても助け手はおらず、たまに大名屋敷が火に近ければ大名抱えの火消が来てくれるだけだった。
六年前、どうにか形ができた町火消は一年を経ていろは四十七組になり、忠相は吉宗から褒美を賜った。町火消は今や武家屋敷の消火にも出られることになったが、風向きによっては町人が武家屋敷を叩き壊すというのだから、江戸はもう武士だけが偉ぶる町ではなくなったのだ。だから享保というのは、武士よりも町人商人が力を持ち始めた世なのかもしれない。
吉宗は将軍になって以来、目安箱を置き、養生所を開き、質素倹約を唱えつつ財政を立て直そうと改革を続けてきた。旗本たちに給米が払えず、人を減らす手前に追い込まれていた幕府も、上米令で急場をしのぎ、新田を拓いて徐々に年貢米を蓄えられるまでになった。
まだ四十を過ぎたばかりの吉宗がどこまで幕府を家康の時分に戻せるか、この国の行く末は今この改革にかかっていると忠相は思っている。そして吉宗の次の将軍には、それを盤石のものにしてもらわねばならない。ちょうど、二代秀忠が幕府の基を完成させていったのと同じように。
忠相がつい思い巡らせていると、障子に人の影が現れた。
「大岡兵庫にございます。本日は急なお呼びと伺い、まかり越しましてございます」
「ああ、待っていた。入るがよい」
静かに障子が開き、少年が細い髷を廊下にうつむけていた。式日と立合のほかは役宅に詰めている忠相は、寄合のないこの日、兵庫を初めて呼び出していた。
御目見得からまだ三日で、この少年はとつぜん異様な渦に巻き込まれて困惑しているのかもしれない。まさか自らこれほど大それたことを謀ったとも思えない。だとすればこの少年はむしろ憐れでもある。
案の定、入って来た兵庫はひどく青ざめていた。あれから系図を調べてみたが、少年の父が忠相とはとこにあたり、忠相はこれまで兵庫に会ったことはなかった。
「御奉行様には初めて御目にかかります。それがしの曽祖父が、御奉行様の御祖父様の弟にあたるのだと父に聞いてまいりました」
「ともかくは面を上げよ。今日はなにゆえ呼ばれたか分かるか」
小さくうなずいて兵庫が顔を上げた。歳よりは幼げな、痩せて頬もこけた少年だった。
と、少年はまたすぐ手をついた。
「まことに申し訳次第もございませぬ」
「何がだ」
「今日はお叱りと存じ奉ります。それがしは御城で、こともあろうに長福丸様と口をきいてしまいました」
詫びようもないと、兵庫はひたすら繰り返して額を畳に付ける。
「よいから、そう顔を伏せておらずに、まずは何があったか話してみよ」
兵庫はもう一度ゆっくりと顔を上げると、激しくまばたきをした。
訥々と少年が語ったことは能登守の話と寸分も違わなかった。
「それがしは気を張るあまり、つい己が直々に問われたと思い込んで口を開いてしまいました」
兵庫が言い終わるより先に、忠相は手のひらを振って頭を下げるのを止めさせた。
「ああもう、しばらくは私が申すまで顔を上げておけ。左様、その折の話だ。兵庫は真実、長福丸様のお言葉が分かったのか」
「分かった、と仰せになりますと」
「ふむ。長福丸様は手足に麻痺がおありだ。それは御目にかかって分かったであろう」
兵庫はうなずいた。
「お生まれあそばしたとき生死の境をさまよわれたのだ。それゆえ口もおききになれぬ」
「たしかに右の御足は引き摺っておいででした。ですが特段のこともなく話しておられましたが」
兵庫は不審そうに首をかしげている。
そういえば長福丸に種々の病があることは、まだ下々には知られていなかった。
「ではそなたは格別のこともなく、長福丸様のお言葉が聞き取れたというのか」
「格別……」
兵庫は意味を測りかねて、きょとんと忠相を見返した。
「小姓に取り立てるなどと言われて、さぞかし得意になったことであろう」
「め、滅相もございませぬ。たまさか最前列におりましたそれがしを、軽くおからかいになったことと存じます」
少年は大あわてで手をつく。
だが長福丸は戯れ言を口にしたりできぬ身体だ。
「家に帰り、真っ先に父母に話したであろう」
「どうぞお許しくださいませ。事もあろうに長福丸様に話しかけ、あまつさえ小姓の約束をいただいたなどと、それがしは軽々に申しました」
兵庫は飛び退って畳に手をついた。
「ならば奉行所への今日の呼び出し、父母は何と仰せになった」
「はい。もはや切腹は免れぬのであろうと」
「切腹……」
忠相は思わず天井を見上げた。
「して、父上はどのようにそなたを送り出された」
たしか名は忠利と、系図に記してあった。
そのときふいに正月に会ったことがあると思い出した。まるで浪人のような、頬のこけたひょろりとした侍だった。控え目でいかにも実直そうな、たしかいつも挨拶だけですぐ辞去したのではなかっただろうか。
「それがしの父は……、ともに腹を切ってやるゆえ、恐れるなと申しました」
忠相はさすがに茫然とした。よく二人揃って昨夜のうちに腹を切ってしまわなかったことだ。
早く呼び出しておいて良かった。明日が内寄合に当たるので、はじめは明後日にしようかと迷ったのだ。
「まさか、そなたの帰りが遅れて、忠利殿が先に腹をお召しになることはあるまいな」
「それはございませぬ。それがしの介錯をしてくださると仰せでございましたので」
「介錯、なあ……」
安堵か呆れか、忠相はため息が隠せなかった。
「そなたは腹を切らねばならぬようなことは何もしておらぬではないか。それどころか、皆がお喜びじゃ。そなたを長福丸様の小姓にお取り立てなさる」
「は……」
兵庫はぽかんと忠相を見返した。
だがこの顔だ。声にも言葉にも、謀りごとなど微塵もまとわりついていない。これが作られた偽物だというなら、忠相は二度と白洲で人を裁くなど御免だ。
「長福丸様はご誕生の折、病のお身の上になられた。あの通り、手足には麻痺が残り、舌はほとんど動かすことがおできにならぬ。それゆえこれまで長福丸様のお言葉を聞き取れる者はいなかった」
兵庫が驚いて目を見開いた。
「ところがそなたは長福丸様のお言葉を聞き取ることができたのであろう。それゆえ小姓にしてくださるとな」
「そ、それがしをでございますか」
少年は青ざめるのを通り越して、凍りついたような強張った顔になった。
「だがこのようなお取り立ては先例がない。万が一、そなたが不始末を起こせば、事は将軍家に及ぶ」
とはいえ不始末とは何かと問われれば、忠相にも答えることはできない。
「長福丸様は、目も耳もお悪くはない。だが手指が震えるゆえ、文字もお書きになれぬ」
だから筆談もできず、日頃は侍女たちが長福丸に問いかけ、それに首をどう振るかで御側が推測している。だがどうしても細かな望みまでは伝えられないので、長福丸は自分でやってしまうことも多いという。
「たとえばな……。兵庫、障子を開けてくれぬか。息が詰まる、しばし休んでから先を話そう」
「は、畏まりました」
兵庫は立って障子を開けようとした。そして寸前で、ふと手を止めた。
忠相は立ってそばへ行った。
「そうだ。その程度のことでさえ、長福丸様は誰にお命じになることもできぬ」
次のページ:少年・兵庫は鳥の鳴き声ですら聞き分けて…