少年・兵庫は鳥の鳴き声ですら聞き分けて…
兵庫とそのまま縁側に出て腰を下ろした。
飛び石の先に櫟や楓があるだけの簡素な庭である。今は蝉がうるさいほど鳴き散らしているが、朝夕には奥の小さな石庭に鳥が来ることもある。
長福丸の母は深徳院といって、吉宗が将軍になる前に亡くなっている。当時まだ三つだった長福丸は少しずつ他の子らと差がつき始めていたが、先のことは案じてもきりがないと笑って受け流せる、明るい聡明な女性だったという。
──それは長福丸は、わが殿のように自ら道を切り拓くことはできぬかもしれぬ。ですが良い家臣を選び、殿の後ろを歩くことならば誤りませぬ。この子の笑みを見ていれば分かります。私は母ですから。
忠相はこの言葉を滝乃井に聞いたが、今その声がじかに響いてくるようだ。
初めて会ったばかりで妙なものだった。心が静まって笑みが浮かびかけたとき、庭先でひゅいっと鳥が囀った。
櫟の陰に褐色の鳥が舞い降りて、羽づくろいを始めた。
兵庫は眩しげに目を細めていたが、すぐ我に返って忠相を振り向いた。
「とらつぐみでございます」
「……鳥の名か。そなたは鳥が好きか」
「はい。大きな蚯蚓でもおるのでしょうか。仲間に知らせております」
忠相が小首をかしげると、兵庫は優しげに微笑んだ。
「用心しながら来いと、皆を呼んでおります」
するとすぐ褐色の鳥がもう一羽やって来た。
「どういうからくりだ」
「鳥は、人が思いもよらぬことを鳴き交わしております。もうすぐ風が強まる、雨雲が近づいている、危ないゆえ離れよと、互いに知らせ合うております」
「もしや、鳴き声が違うか」
そういえば鷹匠たちの中には、鳴き声を真似て鳥を呼び寄せる者がいる。
「雪山と晴天と、声の響きが違うとも聞いたことがある。その類か」
兵庫は遠慮がちに目を細めた。
「板間と布団の上では、響きが異なって聞こえます」
「なんとなあ」
忠相は感心した。よほど生まれつき耳が良いのだろう。
だから長福丸の言葉も聞き取ることができるのかもしれない。
「話を戻す。そなたもどうせお仕えするならば、長福丸様が将軍におなりあそばせば嬉しいであろう」
兵庫はみるみる頬を赤らめた。
「長福丸様が将軍職に就かれました暁には、先達てのそれがしの誉れは、より一層大きゅうなると存じます」
忠相は首を振った。なにも三日前の御目見得の自慢をせよとは言っていない。
「いずれ分かるであろうゆえ、先に申しておく。長福丸様にかぎっては、まだ九代将軍とお定まりあそばしたわけではない」
長子相続は家康が定めた絶対の掟だが、こと長福丸については例外中の例外があるかもしれない。あるいは忠相が知らぬだけで、吉宗も幕閣も、内々ではすでに廃嫡を決めているのかもしれない。
ただの藩主とは違って、将軍は家臣に政を任せきればいいというわけにはいかない。城の奥深くに暮らして、それこそ身体の悪いことを悟られずに済ませることなどできないのだ。
月に三度の定例登城のほか、歳首、五節句などの祝いに行事ごとの諸侯総登城。参勤とお暇の謁見、襲封その他、どれほどの拝謁があるのかは忠相も知らない。
そのたびに四百畳もの大広間でただ一人、上段之間に座るのが将軍だ。入るのも退出するのも皆の目がついてまわり、その折の姿は幾代にもわたって諸国で語り継がれる。
「我らには長福丸様のお苦しみなど、察することもできぬ」
偉そうに言っているが、忠相もようやく思い始めたばかりである。
長福丸は周囲が用意した問いに、然り不然と首を振ることでしか生きられない。だというのに誰からも侮られぬよう、この世に叶わぬことはないという顔をしていなければならない。
「しかも長福丸様は、もしも将軍におなりあそばさねば、廃嫡という疵がつく」
ほんの三日前まで、兵庫には何の関わりもなかったことだ。だが兵庫はこれからは、長福丸のただ一人の通詞として生きていかねばならない。
そうだ、通詞だ──
だがただの通詞ではない。周囲の妬みや恨みを買いながら、人並みに歩くことなどできるのだろうか。
「引き返すなら、今のうちだ」
つい、兵庫の幸いを一番に考えて言ってしまった。
だがその次は長福丸のことを考えた。長福丸のためには、兵庫にそばに行ってもらいたい。
「栄達を望んで小姓になろうと願うならば、やめておくのが身のためだ。わずかでもそのような山気を持てば、そなたの場合は十が十、百が百、いずれは命を落とすことになる」
忠相はもう己の保身は考えていなかった。
「ただでさえ政の中央は、隙あらば取って食おうという智恵者たちで充ち満ちている。ちょっとやそっと目から鼻に抜けるといった頭では、とても泳ぎ渡ることなどできぬ深い淵だ。私には到底務まらぬし、我が子ならば行かせたくはない。だがもしも長福丸様が我が子ならば、是が非でも兵庫には小姓になってもらいたい」
「それは、どういうことでございましょうか」
「長福丸様のお苦しみを、なんとか軽くして差し上げたい。あの御方の背負うておられる苦は、きっと尋常のものではない」
これまで忠相は長福丸自身の苦しみなど考えたこともなかった。だが気づいてしまえば、長福丸ほどの苦悩を背負わされた少年を、忠相は他に知らない。
「誰もが長福丸様を己の立身の道具としか思うておらぬではないか。あのような雁字搦めの器に入れられて、長福丸様の御心は今にも張り裂けるばかりではないか」
長福丸は聡明な頭を、不如意な身体という器の中に閉じ込められている。しかもその器は、この世の誰よりも身動きのできない、将軍継嗣という上段中の上段にぽつんと置かれている。
「長福丸様はただ一人で、悲しみを堪える上に、怒りを抑えておられる」
そのとき兵庫がわずかに身じろぎをした。
「それがしが真心でお仕えすれば、長福丸様のお苦しみは少しは軽くなるでしょうか」
忠相はうなずいた。目頭が熱くなってきた。
「もとよりそれがしは、己の立身出世など願いませぬ。ただ一度、将棋のお相手ができれば、それで十分でございます。どうか……」
兵庫は手をついた。
「どうかそれがしを、長福丸様の小姓に御推挙くださいませ」
「やってくれるか」
「それがしから願い申し上げます」
「そなたにしか、できぬことなのだ」
懸命に兵庫は頭を振る。
もう思い切らねばならない。これはきっと兵庫が生まれる前から定まっていたことなのだ。だから忠相は、ただ一日でも長福丸の心が晴れる、それだけを思って兵庫を送り出すべきなのだ。
忠相はそっと己の拳を握りしめた。