若年寄・能登守が目撃した不思議なやりとり
その日の夕、忠相の役宅に思いもかけぬ賓客が現れた。松平能登守乗賢という三十過ぎの若者だが、家柄にも才智にも恵まれて、すでに若年寄という要職にあった。それがまるで狐にでもつままれたような、困惑しきった顔をして座敷へ入って来た。
いずれは老中にもなろうという能登守は、しばらく陰鬱そうに瞼を閉じていた。出した茶菓には手を伸ばそうともせず、接待は無用と取り付く島もなく言い放った。
だが眼光鋭い目を開いたとき、どことなく怯えがあるようにも見えた。
「御城に突如、長福丸様のお言葉を解する者が現れたのだ。越前の遠縁にあたるというが、聞いているか」
忠相がうなずくと、能登守はまずはためらいつつ湯呑みに手を伸ばした。
「上様のお覚え目出度い越前ゆえ、思い切って出向いて参った。長福丸様の御身の不如意はむろん上様が最も案じておいでだが、我ら幕閣とて心痛は同じ」
中奥の座敷でむせび泣いた滝乃井の声がよみがえってきた。
長福丸は吉宗がまだ将軍になる前、赤坂の紀州藩邸で生まれた。あわや死産というところをどうにか命は取り留めたが、成長しても口がきけるようにならなかった。そのうえ尿を始終漏らすので、座った跡がまいまいのように濡れて臭うとまでいわれていた。
なにより病のせいか生来の性質ゆえか、長福丸はひどい癇癪持ちで、怒り出すと手が付けられなかった。四半刻でも大声で喚き続けるのだが、誰も言葉が分からぬので、当人が疲れて黙るまで放っておくしかない。するといつの間にか、素に戻る。
ただ忠相も初めて会ったときはつい見返したのだが、長福丸はなんとも美しい形の良い目をしている。麻痺で片頬が引き攣れているのに、そんなこともつい忘れてしまうほどである。
だがだからこそ滝乃井のように肩入れする者も現れ、身分のゆえにこれまで厳しく叱る者もなかった。弓も槍術の類も一切しておらず、手にも麻痺があるので仮名ですら書くことができない。
能登守は長いため息を吐いた。
「誰ぞ長福丸様のお言葉をお聞き取りできるとなれば、我らにとってもこれほど嬉しいことはない。乗邑様など、真偽のほどはさておき、ともかくは小姓に召し出してしまえと仰せであった」
乗邑とは先年大坂城代から老中に昇った松平乗邑である。歳はまだ四十にもならないが、その分、忠相も目を瞠るばかりの切れ者である。
大坂では札差たちを相手に辣腕をふるい、年々減るばかりだった幕府の御蔵米をわずかだが増やさせた。それで老中にまで昇り詰めたのだが、今では吉宗自身が誰よりもその手腕に一目置いているといわれていた。
「乗邑様までそのようにお考えならば、もはや小姓お取り立ては決まったも同然でございましょうか」
忠相こそ、ため息が吐きたくなった。考えてみれば、大奥の女中が云々するより先に、幕閣で取り沙汰されていて当然だ。
「だが長福丸様は筆談さえおできにならぬであろう。その者が長福丸様のお言葉じゃと申して勝手な振る舞いをすれば如何いたす」
「ですが長福丸様も、いざとなれば己の言葉ではないと遮ることはなさるのではございませぬか」
もしそれさえもできないなら、将軍になれるはずはない。
忠相も、もう兵庫が御城へ登ることは覚悟するしかなさそうだ。他の老中ならまだしも、乗邑は幕閣の実力者だった。
「それがしは滝乃井様から伺いましたが、たいそうなお喜びでございました。そういえば滝乃井様は、兵庫のことは能登守様にも確かめたと仰せでございましたが」
「いやいや、もとはあちら様よ。御目見得の後から、どうも長福丸様のご様子が妙じゃとお騒ぎでな」
いつも虚空を睨んで鬱陶しそうに過ごしていた長福丸が、何やら浮き浮きとして、座敷に人が来るたびにぱっと振り返って見るのだという。
思い余った滝乃井が、御目見得で愉快なことでもございましたかと尋ねると、長福丸は力強くうなずいた。だがそれ以上はやはり、何があったかと尋ねる術がない。
それで御目見得の場に居合わせた能登守を呼び出して、兵庫のことが明らかになった。
「先達ての長福丸様御目見得の折、たまたま私が奏者番を務めていたのだが」
能登守はわずかに忠相のほうへ身を乗り出してきた。
「長福丸様はあの通り、広間に長く座っておられるのは大のつくお厭であろう。初めから焦れておられるのは分かっていたが」
長福丸の頻尿は生まれつきだから、癖といっては気の毒だが、周りにはどうしても堪え性のない愚者と映った。不動たるべき上段に座す者が厠に立ちたがって身体をもぞもぞ揺するとは、傍で見ているこちらのほうが身悶えしたくなってくる。
だがひるがえって長福丸の身になってみれば、きっと広間に座らされているほどの苦痛もないのだろう。病のせいで小便を垂れてしまうのに、蔑まれつつ皆にそのさまを凝視されているのである。
「あの御目見得でも、やはり長福丸様は中途で座を立ってしまわれてな。こちらは冷や汗が背を伝うた」
だしぬけに立ち上がった長福丸は何やらごにょごにょと言い捨てて、そのまま広間を出て行こうとした。
だがそのとき前列で手をついていた少年が急に頭を上げた。
──将棋がお好きでございますか。
少年はまっすぐに長福丸を見つめてそう言ったという。
その日の御目見得は特別に少禄の旗本の子弟ばかりが集められていた。長福丸に顔見知りがいるはずもなく、立ち去りかけてわざわざ足を止めたのに能登守は驚いた。
長福丸はその場に立ったまま、今度はその少年に向かって何やら口許を動かした。
──もちろんでございます、なにゆえそのようにお尋ねでございますか。
少年は小首をかしげて、長福丸にそう応えた。
長福丸はさらに何ごとかを話しかけた。すると少年は満面の笑みで、畏まりましたと深々と頭を下げた。
「いやはや、すぐそばで見ておった奏者番が申すのだ。あれは確かに言葉を交わしておられた。なにせ、当の長福丸様のほうが驚いて、ぽかんと口を開いておられたのだからな。つねは不機嫌を察せよとばかりに引き結んでおられる、さして動きもせぬ、あの御唇をな」
この通り、と能登守は自らもぱっくりと口を開き、しばし宙を見つめた。そしてそのまま思案に入ってしまった。
やがて忠相を思い出したか、能登守はあわてて口を閉じた。融通が利かず、けれん味もない能登守が今も戸惑っているのは確かなようだ。
そうして少年がじっと頭を下げていると、長福丸は廊下の手前で戻って来た。そして少年の前に立ち、何やら話しかけて能登守に指をさした。
すると少年は目をぱちくりさせて能登守を顧みた。それから畏まりましたと小声で応えた。
「そうとなれば、私も尋ねたくなるではないか。その少年、大岡兵庫とやらにの」
忠相はうなずいた。今のやりとりは何だったのか、忠相でも気にかかる。
御目見得が終わるのを待ちかねて、能登守はその少年だけを残らせて問うてみた。
少年はおずおずと、詫びるように口を開いた。
──私の言葉が本当に分かるならば、この奏者番に、長福丸自らが、そなたを小姓に任じたと申せ。そうすれば私はもう一度、そなたに会うことができる。
長福丸は広間を出る前に、そう言いに戻ったのだという。
それから兵庫は問われるままに、それまでのやりとりを明かした。